終わり

長年続いた○。○。がとうとう終了となりました。本当に長かった。

1話から初めて1年半ほどぶっ通しで、ろくに休まずに作っていたし、それだけに思い入れも格段にあった。1話で初原画だったしな。

仕事も完全になくなり、来週からは長期休みに入るので

会社へは行くが本当に楽な仕事だけして帰ってくる生活。

 

アンダーザシルバーレイク、聖なる鹿殺し と気になっていた映画を立て続けに見て、どちらも具体的な因果関係によるものでなく メタファーや妄想によって展開して行く物語であることに気づく。そういう話の方が自分にとって身近に感じられ、受け入れ易いのだ。

 

余裕のある普通の生活。他人を受け入れる余裕のある生活、空白の時間に他人のことを考える時間のある生活を1週間ほど続けて見て、昔に感じていた感覚が蘇ってくるのに気づく。

 

それはよく 全く知らない街や住宅街や公園に、駅前や学校の近くや商店街に、一人でぽつんと降りたったときに感じる

「この街にも今まで知らなかった人たちがたくさん生活していて、そして今後一切関わらないだろうし、密接に関わることもできないんだろうなあ」といった寂しさや無力感だ。

 

Google earthで作画資料を探していたときに、ふと気になって日本からうんと離れたアイスランドの小さな街を(アイスランドグリーンランドに前から謎の興味があったのだ。)調べてみると、ストリートビューが高性能になっており、かなりの場所まで降り立つことができるようになっていた。

レイキャビクのグロッタの灯台に降り立ったとき、そこはもう夕方で、夕日を浴びてオレンジ色に光る草原と、そこにそびえたつ灯台。海へ向かって紫色に暗くなって行く空が綺麗だった。隣には家があり、ダウンを羽織って毛糸の帽子をかぶった人も写っていた。ここにも人がいて生活しているんだ。ヌークという街の幹線道路らしき場所に降り立ったとき、その街は朝を迎えていて、どこかへ出勤する人々に混じって、学校へ行くのか少年が歩いているのも写っていた。この少年はどこで服を買うのだろう?朝食は自分の家へ済ませたのだろうか?この少年は今自分の未来のために学校に行っていて、大きくなったらどこで働くのだろうか?少なくとも、こんな極東の島国とは一生関わることのない場所で、家庭を持って静かに大人になって行くのだろう。

そこに日本で暮らしているのとは全く別の生活圏があり、独自の文化があるのを感じて感動し、寂しくなったのでした。「覗き見る」という視点がその寂しさを助長させる。

しかし相応の覚悟がなければ、このくらいの距離感が適切なのかもしれない。

 

そうした寂しさは昔からよく感じていて、それはコミュニケーションがあまりうまくなかった少年の頃の経験から来ているのかもしれない。普段はそんなに、穏やかだが、

残って早朝まで(無駄な)作業などをやっている際、愛してくれる人を切実に欲しくなってくる時間が急にやって来たりする。

魔の時間。結局それは日が昇ると落ち着いて、寝て起きたら忘れているほどの、瞬間的で、けれど激烈な「思い込み」に過ぎないのだろうが。

 

俺が絵を描くときに、全てを描けないような気がして、虚しくなってやめてしまうのも

感情の根元はそこから来ているのではなからろうか、と考える。あまり良くないよな。

普通にその瞬間を充実させて描いていれば勝手にうまくなって行くのに、と。これは具体的な問題。

 

 

その様にして感情を恢復させて、僕も大人へ成長していこうと思うのでした。