深夜にgooglemapを見て地元の風景を探し出す。生まれてから高校位まで生活していた町、それをじっとりと眺めて思い出に耽る、あのときこんなやったなぁ、あーここ、ここ、ここで〇〇したなぁ

未練たらたらやんけ、つつしもうと思っていた行為。

前に久々に実家に帰って親と話した時間、高校の頃お前はずっと怒っているようやったと言われ、そうかそんな風に見えていたのか、とはっとした。自分で客観視できていなかった。特にいっぱいいっぱいな時はね

確かにこのころはキレてたな。分かりやすくない、内側にこもる陰湿で厄介なキレ方。

googlemapは2011年ごろからの写真が見られる。しかしこのころはあれだな、家飛び出して、寝るとこなくてもその辺で寝たろかいな、とか思ってたよな。

思えてたよな、が正しいか。

年齢も上がってそういかなくなった、あと、今って高校生とは言えど一人で野宿していたらさすがに危ないんじゃあないか?

東京だけか?

そういう風に考えるようになってしまった。

 

高校生の頃のあの独特な、無鉄砲な自由さに思いをはせる。自分に自信がなかったが、この『嫌だ』という感情にだけは自信があった。もう大人になってしまったな、そういう風には考えられないわ。でもあの頃確かにあったんだ。深夜に家を抜け出して、戻ってきて親にどやされる。しかしあの頃町は怖くなくて、一人でもなんとかやっていけそうな気がしたんだ。実際家出もしたしね。

 

これって凄く嫌な記憶、もう二度と戻りたくないねあの頃に。だから必死で自分の中から追い出して、ここを出て遠くへ遠くへ行こうとして、気まぐれで帰郷しても見ないふりをしていた、「なかったこと」の様にふるまっていた。学生の頃の人間と誰一人連絡をとっていない、取りたくない。当時話をしていた人間たちも、結局仕方なくだったろう?本当にしんどかった。本当にしんどくて嫌だった。

だけどもし今、そういう人から連絡が来たとして会えるだろうか。会って冷静にふるまえるだろうか?地元の縁なんてけっこう先までついて回るぞ?

何を話すんだろう?あのとき楽しくなかったねって正直に?まさか。結局話したくない、が本音だけど、学生時代に良好な人間関係を築けなかったから、ずーっとうっすらと愛情に飢えている人間になってしまった。ふらふらと誘惑に負けて話に行ってしまうだろう。それでまた話が合わずに、または話過ぎて傷つくだろう。見えてんだ。

 

だけど結局見ないふりしたところで一生ついて回るだろう。結局は他人がどうこうじゃなくて、自分の中の弱さの問題だからだ。

 

つまりはそういう人間だ、そこへの反発のYOASOBIが俺が絵を描き始めたモチベーションの根源なわけだな。つまりそこを無視すると、またなんだかわけがわからなくなってしまう。

 

「トラウマ」どんどん開示して寛解すべきかな。今はインターネットのお陰でそういうの流行りだよな

でも昔の人は、それをずっと内に抱えたまま生きて、それの反動で何かを成して、50歳くらいになって解消のターンに入ることとかよくあるよな。

それは・・・でもコントロールするものではなく、そう「なってしまった」結果論なのかな

 

大多数の人間が、他の人間を心から信じて堂々としたコミュニケーションをとってると、それだけで気後れしてしまうよな。でも多分、俺の嫌いな地元の人間は皆そうなんだよな

年齢によってだんだん上手くなる、小手先の技術で何とかならないもんかね?まあでも、一生傷つき続けることは変わりないだろうな。

愛されたい、不安だ、こんなことをやってしまって死ぬほど恥ずかしい、そうして愛情を渡されてるのにそれにも気づかない。しっかり掴むことができない、それがまた恥ずかしい。ダメだ、これ。意味ないことも理解ってるのに、感情の方が強すぎて実践できない。昔のトラウマ?違いない。このトラウマはどうやったら克服できるだろう?年を取ると数は少なくなるが長くなるな、落ち込む期間が。何とかしのいだ。でもこんなことで大切な日が嫌な思い出になってしまうのも本当に嫌だ。俺の心が強ければもっと上手くやれたのに。この気持ちは優しいということと表裏一体だ。いろんな武器を手に入れて、結構強くなったと思ってたのに、本質は変わってないんだな。これを受け入れて何とかしていくしかない。嗚呼。

昨日あったこと。美容院で担当だった人がすごくプロ意識の高い人だった。おれの注文の仕方が上手くなくて、それじゃ出来ませんねぇと言われる。その写真、後ろと横とでかりあげがつながってるから、もみあげだけ2cm伸ばしてはできないんですよぉ。他の美容師さんはうまく意図を組んでやってくれるのに?

カリアゲ何ミリにしますか?ようわからんのでおまかせでお願いします。はいー
っていうかただの確認と相談とすり合わせだ。でもそれだけで昔のトラウマがあふれ出す。その精神的なダメージは2,3日尾を引く。なぜ?なぜこれだけのことで?散髪屋の注文で昔っから失敗してばかりだ。もっとちゃんと(要望を)言ってくださいね?と、別々の床屋で同じことで切れられる/カリアゲ「ぎみ」って何ですか?と言われる。注文の仕方が分からないんだよ。誰もがあんたみたいに詳しくないんだよ。それだけで一日中落ち込んだ気持ちが尾を引いて、いいお茶屋さんでお茶を買ったときに店員のおばあさんに声が届かなくて2回も聞き返しをされ、「すみませんね、耳が遠いもんで」と気を使わせてしまう始末。なぜ?本当に些細なことだとわかっているのに、なぜ心が重くネガティブな精神になって、自分に自信が持てなくなって、その後の一日の自分の言動がビクビク縛られるんだろう?それが寝ても治らずに明日も明後日も続くのだろう?

 

中学の時からそうだったよな。転校を繰り返したせいで、一人っ子で親が教育馬鹿の上甘かったせいで、親戚に子供が一人もいなかったせいで、人付き合いが中学の頃から全体的に上手くいかなくなったよな。それで毎日毎日に皆は普通に学校に通えるのを、すごく不思議そうに思ってたよな?「一日のうちに心にダメージを受けることって2,3個はあるじゃん。そのダメージって2,3日はたたないと回復しないのに、それでも明日は来るからすっごくびくびくしながら学校に行くのに、なんでみんなは毎日平気な顔して毎日学校に行ってるんだろう?」って?

 

其れから大分頻度は減り続けてるが、もう最近は年に4、5回くらいまでには減ったが、それでも年に4,5回は必ず来るこの感じ。30超えてこのザマなんだから、おそらく生涯つきあっていくのだろう。中学の頃から変わらない、同じ感覚。

この精神状態が俺の際底の根っこにあるので、俺はそれに縛られた行動しかできないんだ。それ以上に行動したら、たぶん本来の自分とかけ離れてるから、長続きせず持たないだろう。それは自分の行動ではなくなるのだ。

多分一生俺は表舞台には立てないだろう。そういう性格だから仕様がない。

 

根本的なところで、性格は変えられない。

 

原画のため詰めが少ないのも、こんな外れた絵を描いてしまっていいのかなって縛られてるんだ。もっといい動きが描けるという確信があるのに、「性格」が足を引っ張ってつまらん動きにしてしまうんだ。

こういう性格じゃなければ、もう少しましなアニメを表出できていたと思う。だって明らかにおかしいもん、頭の中で見た良さと、現実の良さが釣り合ってないもん。ビクビクしながら仕事してるからだろう。皆がやってる風なやり方で、気にしないということができないんだよね。

 

この精神を掘り下げていけば、個人的な良さがありそうな気はする。人がどう生きてきたかって人それぞれ本当に違っていて、それは人の興味を引く最強の強みなんだとどこかで聞いた。どーせこの精神の落ち付く場所でしか動けないんだから、この中で自分なりに高めていけば、このやり方で表舞台には立てそうな気がする。いや、「表舞台」には立たなくても、俺の不満は満足させられる気がする。不満の解消→当面それが一番の人生の目的なんだから。

 

仕事ほったらかして好きな絵を描いていると不安になる。

ほったらかして絵はないが、ある程度目途が立ったから、普段ならそのパート最後まで出し切ってしまう所を、いったん止めて絵を描いている。

 

信頼を損なったら今見たいな仕事はできなくなるという不安だが、仕事の絵ばかり描いていてもいつかはジリ貧になるからやってんだよね。

絵を描きたい欲求が、仕事の欲求よりも弱いから、意識しないとできないし、

あと、奥底では好きにイラスト描きたいと思ってんだよね。

 

この不安に従ってパートをあげてしまうと、いつかはジリ貧になる未来が見える
だからこうして快楽を享受しながらイラストを描いている。お絵描きって楽しいな

 

たまにこうなるんだよね俺って、一生懸命な人に見せて、時々梯外したくなる。

梯を外さなきゃいけないんだって気になるんだよね

「アニメを見る快楽より、アニメの感想を語る方が快楽として強い」なんてことを言ってる意見を目にしてはっとした。何をバカな、と思いながら、確かにそういうときもあるかもしれないと思った。

 

これ映画や漫画においてもそうだ。

何かお話を読むということは、自分の中に何があるかを探る行為なんじゃないのか。本当は自分はどう思っているのか、自分で意識していない感情を掬い上げたり、教えられたり、突きつけられたりすることだ。

LO取ってる取ってる

 

 

今年振り返って、自分の書いたものを映像として見たのが〇〇〇しかない、と危機感を覚えたが、紙に書き出してみると「過半数」は見ていた。な~んだ。

 

作画関係のムービーrpする新しい垢作ったが、じっくりみていると
どうも皆俺みたいに、丁寧な線で描いていないことが分かる。

うにゃうにゃのラフの線、けれどそれが生々しさを与えるんだ。

今日から丁寧な線は「2度と」書いてはいけません。

ガロウ

『そりゃ強いわなぁ 後ろめたさを持たずに暴力を振るえる人間は

何者にも勝てるだろうよ』

 

だって。

ワンパンマンのガロウとクロビカリの戦いを見てはっとする。共感力の高さ。

相手が今、たぶんこういう風に思ってるんだろうな、と推測して、そこに「親しみ」を持つことができる。

この能力が高いおかげで、今まで上司や立場が上の人とのやり取りに苦労したことはない。なんかきつ~い言葉や非道いことを言われてもそういう言動を受けても、「まあ、その立場だったらそう言うよな。俺だって同じ立場なら言ってしまうかもしれない」とか、相手のしている苦労や苦しい立場を鑑みて、「そういう目に逢ってたらつらいよな。そういう言葉が出てしまうのもわかるわかる」と、謎の共感を持ってしまい、あまり怒りや苦しみがわいてこない。

おそらくあれをパワハラというのだろう。しかし共感力とそこに親しみを持ってしまう性格で生まれた俺には、大抵は致命的にはならずに済んでここまで来た。最終的には、いつでも相手に気に入られてたし。

 

何かの勝負事をするときに、これが「後ろめたさ」になるわけだ、と、このシーンを読んではっとする。相手に対して共感して、親しみを持ってしまう。「俺が勝ったら相手がかわいそう。」なんたる失礼で傲慢。そこまで直接的でなくとも多少のブレーキがかかって本来の力を発揮できない。しかしこういう原理でいままで俺は動いてきたのだ。

 

 

『要は優しさを捨てたわけだ』

はい。これは優しさや、弱さともいう。

しかし、人間の性格の変えづらさは、〇〇年生きてきたら実感としてよくわかる。

自分が得意なことは、なんでこんな簡単なことが皆できないの?ってびっくりするし、

逆に相手が得意なことは、努力や鍛錬によって補えるというレベルの話ではなく、そもそもが、逆立ちしてもできなかったりする。

それほど人によって能力の多様性があるんだということが、最近実感としてわかってきた。

こういう性格で生まれた俺にできるのは、意識して変えていくことだけ。
何かをなしたい、やり遂げたい、達成したい(=勝ちたい)と思ったとき。またそういう局面がいやおうなしに迫ってきたとき、俺は、共感と親しみを一時的に捨てること。そういう意識が大切なんだと思いました。俺は捨てるくらいで「人並み」なんだからね。
だって本来の力を発揮したいじゃん。周りに流されることなく自分の力発揮して、それで勝ったり負けたりしたいよね。

そういうときがくる。