無
自分が能動的に何かをやって、それを誰かに承認されないと、この問題は解決しないよ。
いくら絵を描くことで満たされない欲望の埋め合わせをしていても代替行為はただの代替行為なのだから。
未だに俺の中では他人はひどく脆弱なものに映っていて、その脆弱なものを壊してしまった時の自分の罪悪感に対する問題なんてものを大真面目に検討している。
「それは間違った認識だ」と分かっていても、分かっているだけじゃだめなんだ。
絵を描く時と俺とリテイクカットを処理する時の俺とのバランスが取れない。
実存の不安定さはコミュニケーションも不安定なものにして、どんどん評価は落ちていく。
「他人に嫌われるのが怖い」という感情が、ずっと俺の心を支配しているからだ。
あの日受けた疎外感の強烈な体験が、まだ頭の中に残っているのだろうか
それとも単にプロセスを無視してはやく目標にたどり着きたいと焦ってるからなのだろうか。
後者だとすると、この最短距離で欲望を満たしたいという考えがこの時代特有の悪しき風習であるかのように思われる。
どうして彼みたいじゃないんだろう
どうして彼女みたいにないんだろうと考えることで、他人との人生の比較が俺の足りなさを露呈させ、そして精神を不安定にさせる。
どうして俺には日常がなかったんだろう?
しかし、その虚無を埋めようとして雑多な知識と映像作品のアーカイヴを頭の中に作ったとしても、その本質が阻害されたことへの怒りや復習に動機付けられたものなのであれば、その知識を他人は共有してくれないし、承認も得られない。
そして、周りがそういう奴らばかりなのであれば、自分より多くの知識を持っているものがいたら、拒絶の反応しか返ってこない。
他人から帰ってくる反応によって、自分が今してることがどれだけ公的なものか私的なものかがわかる。そこで反省が生まれるわけだが、そもそもその他人がちょっとおかしくなっていた場合、拒絶の反応が返ってきても、自分のしたことは間違っているとは限らない。
他人から拒絶されても、自分にとってやらなければならないことはある。
ただ、それを継続し日常を送っていると、しだいに理想のほうが日常に回収されていって、直感的な反応しかできなくなってしまう。
自分のしていることが正しいのか正しくないのかがわからなくなる、それが問題なのだ。
正しい行動は他人から受け容れられる、間違った行動は他人から拒絶される。
しかし、反応を返してくれる集団が間違っている場合、拒絶されても正しい行動というのは存在する。
では、その間違った集団から受け容れられて、なおかつ自分の承認も満たされる方法というのはあるだろうか?
今の状況では、1、じぶんの承認の方を優先させてしまうと他人から拒絶されて、承認が得られないし、周囲の評価も下がる。
2、周囲の人たちが正しいと思うであろう行動をとると、他人から受け容れられるが、自分の承認は満たされない。
仕事上に実存の承認を求めているからこんなことになるんだろうと思う。
承認を得ることと、自分が正しいと思う行動をとることは全く別の問題で、
誰かから承認されているから、自分が正しいと思った行動がとれるだけなのだ。
その上では間違った拒絶の反応が返ってきても、「許してあげる」ことができるようになる。
ではどこに?
自らの孤独を癒してくれるような、そんな現実はどこにあるだろうか?
(その考え方はとても都合がよくかつ冒頭で悪しき風習と断罪した短絡的な欲望の満たし方なんじゃないか?)
ただ、一つ言えるのが、何か地道み積み重ねたその先に俺の求める承認が得られたとしても、そこで創作活動は終わりじゃないよってこと。
自由に振る舞えるようになっただけで、お前は自分の創作は抑圧から生み出されるべきものじゃないって思ってるし、ようやく自由にものを作ることができるようになったって思うだけなんじゃねぇの?ってこと。
この愛情が受け入れられたら、もう俺はものが作れなくなってしまう、とか、そういう余計な心配はしなくていいってことだ。だって、疎外感を満たすための創作なんて、ただの発散行為だもの。欲望を満たす発散行為はコントロールできないから好きじゃないんだ。
だから、言語化できないそこで今日は悩んでたんじゃないのか?
俺の創作は、過去のトラウマからでも抑圧の解放からでも、阻害が転じた愛情からでも生み出されるべきじゃなくって、
じゃあ、俺は何のために絵を描くのか?
単なる快楽の果てにそれがある。疎外感は、俺をこの世界に引っ張り込むためのカギでしかなかった。それでどうだろうか?
過去のトラウマや闇的な部分はその絵に宿る色気とか凄みとかになって隠れて昇華されると思うからさ。
その経験は必要なかったってことにはならない。
技術を突き詰める快楽。どうも俺は疎外感を絵を描く時の頭で処理しようとしていたんだな。
それは生活を送る時の頭で処理されることなのだ。
技術を突き詰める時の快感ってあるだろ?
それはかつて感じた疎外感の発散行為じゃないんやで。
公開日
納品が終わった。
やったー!ようやく寝られる。
午前9時頃に最寄駅に帰ってきて、近くのジョナサンでモーニングセットを頼んで、家に帰って風呂に入って歯を磨いてるところへエホバの証人の王国会館から布教の人が来る。適当に返答してチラシをポストに入れといてもらう。
寝て起きると辺りは暗くなっていて、寝ぼけた頭ですわ早朝かと思うが午後9時を過ぎている。
寝る前に風呂に入ったばかりだが、ずっと行きたいと思っていた近くの銭湯まで気晴らしに風呂に入りにいき、帰りにバーミヤンで酢豚とライスと餃子を頼み、食べ終わった頃になんだか漠然とした不満が自分の中にふつふつと湧いてくることに気づく。
抑圧したものを優先させてみようと自分の感情を操作してみるが、発散の方向がわからない。食欲でも睡眠欲でも制欲でも満たされない。youtubeでダウンタウンのトークを聞いても満たされない。ただの麻薬的な一時しのぎだ。
絵を描くことってこんなに難しいことだろうか?
この欲望が自分の絵によって昇華されるのはわかるのだが、なんだかそんな気分にもなれない。
行き場のない不満だけがだんだん溜まっていく。
大勢の人でアニメを作っている最中、俺がいつもやりにくさを感じているのは、自分の絵を描ける、絵をうまいんだと内心思ってる自負を周囲の人に向けてしまったことへの恥ずかしさだ。さすがに無神経にドヤ顔だけしているわけには行かず、あ、俺今なんかすごいどやってんな・・・とあたかもそれはやっちゃいけないタブーを冒している自罰的不快感を感じることがたびたびある。
何ていうか例えば・・・「こっからここまでがまだチェックできてないんだけどさ」「あ、そこは何ていうか、一人でやってしまったっていうか・・・」(自慢してるふうにならないようにならないように...あーまずい、この表現まずいぞ)
「いややってしまったかどーかは知らないけどさ」
あ...いま○○さん俺の中の自己顕示的部分に不快感を感じてる...これ周囲の人の反感買うからやめたほうがいいんだよ、恥ずかしい...
ってな具合に。
いや、この欲望が画力で構成された縦社会で上に登っていくとき心が折れないため必要なものだってのはわかっているんだけど、日常を過ごしているとき常に理想や原理のことを考えてるわけにもいかんだろ?周囲の人の人間関係常に起こる、あとで家に帰って一人で考えてみたらそんなことにこだわってたの?と呆れたくなるようなとてもミクロな好悪の感情、相手を不快にさせてしまった、相手を楽しませることができたって悲しさや嬉しさの方に重点を置いてしまうことってあるじゃない。そういうバランスと自分を満足させるためのバランスをうまくとりながらやっていくのが現代の社会で自分が最大利益を上げることのできる方法だという結論にいつもなるんだけど。
絵描くのムズッ!そんでこの欲望を満たすのはどーしたらいいの?
また描き方がわからなくなってきたぞ...
■
考え方、価値観のシフト中。
今週末にかけて一つ結論が出るかも。
昨日の日記を読み返すと…
勝手なこと言ってんよなー…という印象。
一晩寝てスッキリすれば、昨夜許せなかったことが許せるようになる。
この種の狭隘さから抜け出せないもんだろうか
「しかし、それこそが絵を書く原動力になっているのであり…」
とか、もう。
言ってる場合でも状況でもない。
また同じ日々
自分の嫌なことは絶対に人にはしたくない、と思う今日この頃。
これは矜持ではなく、誓いでもなく、恥や恐怖といったもの。
ある種の大失態はあっけなく日常の中に埋没されて、また今日も普段通りの日々が始まる。
何度も繰り返した悪い想像とは裏腹に、少しだけ出世するなんて、この世界はやはりよくわからん。
また今日もクオリティと納期の狭間で揺れ動く日々。
本当言うと納品日とか締め切りとか、どーだってよく感じるんですよ。
最終的には俺の絵がうまくなれば良いし、動画もその練習台に過ぎない。
つーか動画取れって言ったり、スケジュールに余裕がないからあんまり取るなって言ったり、いったい俺はどーしたら良いんだよ!
アニメってのは集団制作で、ただでさえ時間も物資もなくて差し迫った増強なんだから個人の我を殺して黙々と動画を量産すことに徹するのは当然だろ?
俺は良いアニメが作りたいんだ!その結果のためなら俺の個人的なエゴや衝動なんて
無価値だしどーだって良い。そんなこと考えてる暇があるなら手を動かせ、結果を生み出し続けろ!
この2つの考えが4:6とか3:7で後者が勝る状況が続いている。コンディションはなかなかいい。あの頃に比べて良くなった。
暇ができたらすかさず模写して練習しよ。資料は山ほどあるんだし。
って思えるくらいに心は広くなっている。
まあ今朝はちょっとだけヤバかったんだけどね。久しぶりに、なんの創作物にも触れてなし、なんの創作物も生み出していなしって状況が3日間くらい続いて、動画を書いて、リテークをして、深夜に終電で帰って寝る、なんて状況が続いたから、久しぶりに自分の中身がカラッポになって、情緒が不安定になるからまともな精神状態で人と話せなくて、余計に孤立を招いて...って感じがきてて、
まあこれはまずいし、なんとかできるんじゃないかと思って逆にマトモに恐怖感を感じ続けながら人とかと話してると、なんとかうまく満たされることができた。
こういう状態でのコミュニケーションは失敗する確率は確かに高いが、何度かに一回は必ず成功するので、そのたった一つの成功でそれまでの損失分をチャラにできる、という一つの教訓を得た。
逃げずに立ち向かった、って自負も自分の中に生まれるし。
そんな感じでやり過ごそうとしている最中、例の問題が再び現れる。
俺の人とは違う部分が、他人に受け入れられなかったって疎外感。
正直、ショージキな話、俺の方がそいつらより人間に対する懐は深いんじゃねーの?って思うわけだよ。
俺がオカシイですオカシイですみたいなこと言ってっけどさ、その発言自体がそいつの他人を受け入れられない懐の狭さ、人間的な器の小ささを表してる、実に恥ずべきことなんじゃねーのかよ。ってさ。お前は自分の未熟で浅ましい部分を「何か間違ってますか?」って平気な顔して晒してるんだぞ。ああ恥ずかしい。
って
叫び出したい。お前が・・・とそいつの胸ぐらを掴んで罵声を浴びせてやりたくなる。
まあでもさ、苦笑いをして、まあそうだよねー、その気持ちもわかる、と静かにうつむいているのが大人な対応なんだろう。
実際わかるんだから仕方ない。
だがな、もーちょっとなんとかならんかなあれ。「自分にはない考え方なので驚いてます・・・」なんて言われた日にゃね。俺からしたらまあそんなもんだよねってなもんだよ。連帯感を持つのも良いけどさ、世界にはいろんな人間がいるんだから。俺だって理解されない考えを持ったまま、世間に妥協して妥協してなんとかうまくやってんだろ?なんで俺ばっか尽くしてんだよそっち側によ。
ほんまー
話通じないやつなんて腐るほどこの世にいるんだよ。どんな狭隘な世界で育ってきたんだてめーらはよ。
なんて画一的な人間観なんだ?変な奴いた方が多様性あって良いだろ。
よくわかんねーこと言いやがったらぶつかって怒りゃ良い話じゃん。その方が理解も深まるだろーがよ。
なんつって、
こーしたことを考えて、この問題に拘泥するのはこれ以上益がないとわかる。
・オカシイって言われてあれだけ心がぐらつくのは、過去の古傷が開いているだけ。
・そいつがそんなことを言うのは、俺がそいつと問題意識を共有していないから。
そいつが俺の心の中の、上述した3:7の3の部分を見ているから。
・そして、目標達成のためにそいつが抑圧している部分に俺が頓着していないから。
みんなが我慢している状況では、我慢をしていないやつに顰蹙が集う。
でもまあ別に、思うんだけれど、
1:欲望があって、その通りに行動する人がまずいて、
2:全体を俯瞰で見てから、「そうはいってもねー」って欲望を抑えて全体のために行動する人がいて(こいつは1よりメタ視点に立っている)
3:全体のために行動しながら、同時に自分の欲望も満たすことをする人がいて
☝︎こいつは2よりもメタ視点に立ってるんじゃないのかな?
くっそ、腹たつけど俺は俺の嫌がることを他人にできない。そうすることを恐怖とは時によって禁止させられている。
だから3の立場を貫いてそいつに無言の抵抗を試みてやろうかしら。
まあでも俺も俺を否定するやつらのことわかる気ないよね。
いや、わかるから反発できないだけなのか?
これに対処するうまいやり方はないのかな?
(俺はこれ以上の速度で変化することは無理だしな)
そんな感じ。おわり。