なんだかイライラしないか?

誰かを叩く人の心理が非常によくわかる。ベッキーしかり、野々村議員、舛添さん、

 

 

なんだかイライラしないか?ふつうに生きていて。身の回りにはきちんと綺麗なものが揃っているのに、なぜこんなにも満たされないんだろう?

 

.....と、みんながそう思っている、と僕は思っている。みんなが何かにイライラしている。

(こないだplanetalianの監督の熱っついインタビュー記事載せてるアニメ系のまとめサイト見てたら、反応いい感じのコメント群に紛れて一人「なーんかムカつくなぁ、叩ける要素探そうぜお前ら」とか書いてる奴がいてなんか笑った。)

 

前提条件が覆ったんだ。あなたがゼロだと思っていた地点は実はマイナスで、あなたたちはもっと得てもいいんだよと欧米人からインターネットによって啓蒙されてしまった。

一見それは、「開かれた」「自由」というものは、「抑圧からの解放」というものは、

とても素晴らしくまっとうな正義ごとのように思えるが、ある種の人間にとって、自由であることが新たな抑圧の始まりなのだ。

 

 しばしば同胞であるはずのところの同じ日本人が、

「出る杭が打たれる日本、個人主義は非難される日本はとても息苦しく、我が国のこーいう傾向は欧米と比較して劣っていて日本人の未開さ野蛮さの残っている部分であるので恥ずかしいことだ、云々」などとことさらヒステリックに恥じる傾向もよく見られるが、でもそれってつまりそれぞれの人種に内在するある種の環境の外圧からの抵抗力の問題なのであって、安定した土壌と穏やかな環境の中濃密な人間関係に支えられて育まれてきた民族と、何もない広大な大陸を、先住民たちをバンバンブチ殺して奴隷にしながらゴリ押しで開拓しきった民族とで、そりゃあ違いも生まれるっしょ。

結局それはだ、アメリカの価値観を採用すれば、多数決的に地球上のより多くの人を自由にするってんだからその価値観がスタンダードになりつつあるだけで、それぞれの環境に対する適応の仕方に、優劣なんてものはない。逆に言うならそれぞれの適応のやり方がその環境下では最も優れたやり方であり。そー思う奴がいるんならお前はそーいうのが尊重される価値観を採用している環境に行けって話だ。

 

個性的なやつが不自由する社会が日本だっていうんなら、逆の立場から言わせてもらうとお前の出す個性によって日本人は不自由するんだよ。

 

「日本は個性がを出すと叩かれる」って自己主張するやつによって、ある意味俺たちみたいなんが叩かれているように感じちゃうんだよ。

 

作用と反作用。

 

だから叩くわけ。自己主張する奴を。それは怯えとか恐れであって、自尊心を逆なでされているようであって。

....ごめんね、じゃないと心が安定しないんだ。

だって周りの人間が助けてくれなくって、負けたら即死が前提っていう世界の捉え方ってさ、なんかやばくね?ここ10年くらいでだんだんそうなってきたでしょ。

お前のそのあふれんばかりの能動性で、そんな環境でサバイバルできるってんならいいよ。お前だけはな。

でも俺たちにとっちゃそーいうことができないわけ。

なぜって?

 

俺たちの採用してる価値観では、結局世間様が助けてくれたから、想定の範囲外なのよ。

そーいうページなんてないし、あったとしても白紙なわけ。

なんでできないのか以前にさ、そもそもそんなものがあるなんて知らなかったんだってば。

 

 

東京難民見たよ。たかが3つ4つ条件が揃わないだけで、今の社会簡単に餓死するね。

「全員が平等で身分なんてない」って思ってっからだよ。そのくせなんかみんな「なにかひとつ、特別なもの、周りの人間に勝てるもの」を必死で探して、出し抜こうとするだろ?それが生き残るための手段だって思ってる節がどっかにあるだろ?

人間の身分や格差なんてどんな社会にだって存在している。江戸時代だって文明開化した後だっていつだってあった。今だけがないなんてご都合主義な話はない。

それに慣れれば?いい加減。

 

 

 

 

 

 

弱みを見せたら負け、欲望の尻尾をつかまれたら終わりだ、って考え方。

お前の言う「負け」ってのは「疎外」のことだろ?

弱みを見せたら疎外される、欲望に突っ込まれたら疎外される。

だから弱みも欲望も、抑圧されたままお前の中にある。 

 

 そしてお前はせかせかと働いて、なるたけ高い安全なポジションにつこうとする。

 

 その行き着く果てはハイパー資本主義であって、効率良く収益を得るためにどこにいっても同じチェーン店しか無くなってお前はそこでしか働かざるをえなくなり、「あなたが」「その場に」「必要」と言ってくれる上司も仲間も文脈も文化もなくなって、誰が作ったのか、何でできているのかすらもわからないセブンイレブンのサンドイッチめいたものなんて食べながら、失われた承認を満たすためにインターネットで誰かを叩く。

誰かを叩くってことは、要は誰かに叩かれるかもしれないって世界観で生きていくことだから、過度な緊張がイライラを生み、ますます承認は遠ざかる。

 

でも誰かが作ってくれる安くて美味い飯はいくらでもあるので、少なくとも死ぬことはない。

 

かくして「生をつなぐこと」と、「生活すること」とが乖離をきたし始める。

 

 

 

 

やっぱりさ、思うに

人間が肉体も精神も健康に生きるには、

自分が生活する範囲のことを、きちんと自分でしなきゃならんのだと思うんよ。

洗濯したり、料理をしたり掃除をしたり、ゴミを分けて出したり、選挙に行ったり

そうして身の回りを恒常的に保ち続けることによって、人間は自分の欲望とか絶望とかいった本能的な昂まりを鎮めて、健康に生き続けることができんだと思うんだけどなあ。

そしてそれが価値観のポジショニングになり、そこがゼロだと身体的にわかる。

何か当然満たされるべきものを剥奪されているって焦っていても、それは錯覚なんだってわかるから。

 

 

 

 

 

おわり。

なんか変な話......