午前休

午前休。頭痛が酷いということにして、12時ごろに家を出る。

午前中はずっと絵を描き、満足してふと目をあげると、部屋が散らかっているのに気がつく。

簡単に片付けをして、洗濯物を取り込んで、ゴミ箱のゴミを捨てた。

世界にうまくピントが合っている。何らかの事象一つ一つに対し、「健全な」反応が自然と心に浮かぶ。

「これは普段は無視しているだろう」というところにまで目が行き、そう感じることで普段はいつもより多くのものを無視しているんだなとちょっと驚く。

 

しかし普段など過半数だ。

「特別な状況」が週に4日を越えれば、それが普段の状態になる。

 

 

 

理性というものが意外と強大で、時々自分が「本当に何をしたいかを抑圧させていること」を理性によって知らされないままいまの状況でとる「べき」行動を取ってしまっていることがある。

 

それと同じように、何かをある言葉で定義付けてしまうと、そのまま定義にひきずられて、自分の本当にしたいことができなくなってしまうこともある。

 

本当にしたいことをするために、有象無象の混沌とした現実を整理しようとして行う「定義付け」のはずが、そのショートカットは自らの意識の裡をあまりよく検分せずに行動してしまうという弊害も生じさせるのだ。

 

そして理性のジャミングを押しのけて「本当にしたいこと」に気づき、それをやろう(やったらこの苦しみから解放される)と思っても、理性は「本当はこんなことするべきじゃない」と耳元で静かに囁き続けてくる。全くと言って良いほど発散行為にならない。むしろ抑圧が募っていくだけだ。

 

こういうことが最近起きています。

 

まあ、自分がするべきではない(けど本当はやりたい)と思っていることを少しずつバレない程度にやっていって、だんだん自分の抑圧を緩めていくしかねーな。

休日にディスクロニアの鳩時計午前の部を読んだ。

NEWGAMEのアニメを作業中に見て、漫画も全部揃えてしまった。

そのあと、見るものがなくなったのでゲームウォーズを上下巻とも全部読んだ。

何か創作物に依存していたおかげで乗り切れた気がする。

終わりのセラフを読んでいる。まともな大人が一人も出てこない漫画とか誤解していてごめん。 とても面白いよ。虚構推理を読んだ時に感じたような漫画力の高さ。時々出てくるイタい展開もご愛嬌。

 

〇〇のために朝まで付き合って、帰って寝て夕方に起きるとなんか体のリズムが崩れて何に対してのやる気も全くなくなってしまう。

 

一体俺はどうすれば良いんだ?

自分が能動的に何かをやって、それを誰かに承認されないと、この問題は解決しないよ。

いくら絵を描くことで満たされない欲望の埋め合わせをしていても代替行為はただの代替行為なのだから。

 

未だに俺の中では他人はひどく脆弱なものに映っていて、その脆弱なものを壊してしまった時の自分の罪悪感に対する問題なんてものを大真面目に検討している。

「それは間違った認識だ」と分かっていても、分かっているだけじゃだめなんだ。

 

絵を描く時と俺とリテイクカットを処理する時の俺とのバランスが取れない。

実存の不安定さはコミュニケーションも不安定なものにして、どんどん評価は落ちていく。

 

「他人に嫌われるのが怖い」という感情が、ずっと俺の心を支配しているからだ。

あの日受けた疎外感の強烈な体験が、まだ頭の中に残っているのだろうか

それとも単にプロセスを無視してはやく目標にたどり着きたいと焦ってるからなのだろうか。

 

後者だとすると、この最短距離で欲望を満たしたいという考えがこの時代特有の悪しき風習であるかのように思われる。

 

どうして彼みたいじゃないんだろう

どうして彼女みたいにないんだろうと考えることで、他人との人生の比較が俺の足りなさを露呈させ、そして精神を不安定にさせる。

どうして俺には日常がなかったんだろう?

 

しかし、その虚無を埋めようとして雑多な知識と映像作品のアーカイヴを頭の中に作ったとしても、その本質が阻害されたことへの怒りや復習に動機付けられたものなのであれば、その知識を他人は共有してくれないし、承認も得られない。

そして、周りがそういう奴らばかりなのであれば、自分より多くの知識を持っているものがいたら、拒絶の反応しか返ってこない。

 

他人から帰ってくる反応によって、自分が今してることがどれだけ公的なものか私的なものかがわかる。そこで反省が生まれるわけだが、そもそもその他人がちょっとおかしくなっていた場合、拒絶の反応が返ってきても、自分のしたことは間違っているとは限らない。

他人から拒絶されても、自分にとってやらなければならないことはある。

 

ただ、それを継続し日常を送っていると、しだいに理想のほうが日常に回収されていって、直感的な反応しかできなくなってしまう。

自分のしていることが正しいのか正しくないのかがわからなくなる、それが問題なのだ。

 

正しい行動は他人から受け容れられる、間違った行動は他人から拒絶される。

しかし、反応を返してくれる集団が間違っている場合、拒絶されても正しい行動というのは存在する。

では、その間違った集団から受け容れられて、なおかつ自分の承認も満たされる方法というのはあるだろうか?

今の状況では、1、じぶんの承認の方を優先させてしまうと他人から拒絶されて、承認が得られないし、周囲の評価も下がる。

2、周囲の人たちが正しいと思うであろう行動をとると、他人から受け容れられるが、自分の承認は満たされない。

 

仕事上に実存の承認を求めているからこんなことになるんだろうと思う。

承認を得ることと、自分が正しいと思う行動をとることは全く別の問題で、

誰かから承認されているから、自分が正しいと思った行動がとれるだけなのだ。

その上では間違った拒絶の反応が返ってきても、「許してあげる」ことができるようになる。

 

ではどこに?

自らの孤独を癒してくれるような、そんな現実はどこにあるだろうか?

(その考え方はとても都合がよくかつ冒頭で悪しき風習と断罪した短絡的な欲望の満たし方なんじゃないか?)

 

ただ、一つ言えるのが、何か地道み積み重ねたその先に俺の求める承認が得られたとしても、そこで創作活動は終わりじゃないよってこと。

自由に振る舞えるようになっただけで、お前は自分の創作は抑圧から生み出されるべきものじゃないって思ってるし、ようやく自由にものを作ることができるようになったって思うだけなんじゃねぇの?ってこと。

この愛情が受け入れられたら、もう俺はものが作れなくなってしまう、とか、そういう余計な心配はしなくていいってことだ。だって、疎外感を満たすための創作なんて、ただの発散行為だもの。欲望を満たす発散行為はコントロールできないから好きじゃないんだ。

だから、言語化できないそこで今日は悩んでたんじゃないのか?

 

俺の創作は、過去のトラウマからでも抑圧の解放からでも、阻害が転じた愛情からでも生み出されるべきじゃなくって、

 

じゃあ、俺は何のために絵を描くのか?

単なる快楽の果てにそれがある。疎外感は、俺をこの世界に引っ張り込むためのカギでしかなかった。それでどうだろうか?

過去のトラウマや闇的な部分はその絵に宿る色気とか凄みとかになって隠れて昇華されると思うからさ。

その経験は必要なかったってことにはならない。

技術を突き詰める快楽。どうも俺は疎外感を絵を描く時の頭で処理しようとしていたんだな。

それは生活を送る時の頭で処理されることなのだ。

技術を突き詰める時の快感ってあるだろ?

それはかつて感じた疎外感の発散行為じゃないんやで。

公開日

納品が終わった。

 

やったー!ようやく寝られる。

 

午前9時頃に最寄駅に帰ってきて、近くのジョナサンでモーニングセットを頼んで、家に帰って風呂に入って歯を磨いてるところへエホバの証人の王国会館から布教の人が来る。適当に返答してチラシをポストに入れといてもらう。

寝て起きると辺りは暗くなっていて、寝ぼけた頭ですわ早朝かと思うが午後9時を過ぎている。

寝る前に風呂に入ったばかりだが、ずっと行きたいと思っていた近くの銭湯まで気晴らしに風呂に入りにいき、帰りにバーミヤンで酢豚とライスと餃子を頼み、食べ終わった頃になんだか漠然とした不満が自分の中にふつふつと湧いてくることに気づく。

抑圧したものを優先させてみようと自分の感情を操作してみるが、発散の方向がわからない。食欲でも睡眠欲でも制欲でも満たされない。youtubeダウンタウンのトークを聞いても満たされない。ただの麻薬的な一時しのぎだ。

絵を描くことってこんなに難しいことだろうか?

この欲望が自分の絵によって昇華されるのはわかるのだが、なんだかそんな気分にもなれない。

行き場のない不満だけがだんだん溜まっていく。

 

大勢の人でアニメを作っている最中、俺がいつもやりにくさを感じているのは、自分の絵を描ける、絵をうまいんだと内心思ってる自負を周囲の人に向けてしまったことへの恥ずかしさだ。さすがに無神経にドヤ顔だけしているわけには行かず、あ、俺今なんかすごいどやってんな・・・とあたかもそれはやっちゃいけないタブーを冒している自罰的不快感を感じることがたびたびある。

何ていうか例えば・・・「こっからここまでがまだチェックできてないんだけどさ」「あ、そこは何ていうか、一人でやってしまったっていうか・・・」(自慢してるふうにならないようにならないように...あーまずい、この表現まずいぞ)

「いややってしまったかどーかは知らないけどさ」

あ...いま○○さん俺の中の自己顕示的部分に不快感を感じてる...これ周囲の人の反感買うからやめたほうがいいんだよ、恥ずかしい...

ってな具合に。

 

いや、この欲望が画力で構成された縦社会で上に登っていくとき心が折れないため必要なものだってのはわかっているんだけど、日常を過ごしているとき常に理想や原理のことを考えてるわけにもいかんだろ?周囲の人の人間関係常に起こる、あとで家に帰って一人で考えてみたらそんなことにこだわってたの?と呆れたくなるようなとてもミクロな好悪の感情、相手を不快にさせてしまった、相手を楽しませることができたって悲しさや嬉しさの方に重点を置いてしまうことってあるじゃない。そういうバランスと自分を満足させるためのバランスをうまくとりながらやっていくのが現代の社会で自分が最大利益を上げることのできる方法だという結論にいつもなるんだけど。

 

絵描くのムズッ!そんでこの欲望を満たすのはどーしたらいいの?

また描き方がわからなくなってきたぞ...

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仕事をするのが面白くて仕方がない。

いろんな人に迷惑をかけてるけど

 

それでも面白くて仕方がない。

 

きっと一瞬の高揚感なんだろうけどね、

 

西原理恵子が、お金を稼ぐことは自由を手に入れることだって言ってたけど、

 

仕事をするってなんなんだろうな。

 

おわり