家にいる時間が短いから、おそらく2週間(かもっと)付けっ放しのPCはさすがに動作が遅くなってきて、やばいなあと思っているだけで今日も付けっ放しのまま会社へ行くのだろう。

 

朝日が登ってきて、改めてこの社会のクソ性について自動的に頭が回り始める。

 

アニチューブとかまとめサイトとかの不可避的に視界に入る下品なエロ広告をどうにかしろ。そりゃあ男に不信感持って痴漢冤罪も増えるわ。ボケが。

 

マイホーム (笑なんてもの目指して働いてた我々の先行世代のせいで今の社会の寄る辺なさが生まれてんだろが。老後のこととか考えなかったのか?生活なんてそう簡単に変えられんぞ。死ね。

 

こんなに文明が発達したのになぜ人々の労働時間は増えてんだ?何で俺はこんなに働かされるんだよ。仕事がなくなる漠然とした不安が原因ならもっとしっかり考えろ。何かやり方があるはずだろ。

感性を殺されるくらい忙殺されるのなら金も稼げなくなって死んだほうがいくらかましだ。

 

社長はバカ(いい意味での。つまり後先の細かい計算を度外視して行動できる稀有な人種)しかなれないことがわかったし、動画枚数なんてくだらない評価基準は絶対でないこともわかったし。付き合う人の数や種類を増やしていけば、隣の人からの評価に惑わされずに住むこともわかった。

 

 

俺の住んでいた世界はもう少し先へと広がっているんだ。

 

 

 

 

はてなブログを書かないと

と思い1週間が過ぎる。木曜日は徹夜して作業を終わらせて、明日はさっさと帰って惰眠を貪ろうと思ったがそうはいかず、金曜日も夜中11時くらいまで付き合わされる羽目に。

次の日の土曜日、15時くらいに出社したが、昨日からずれこんだ6時間のせいで作業が終わらずまた終電を逃し、朝になってから帰る。

そこから寝て、日曜日、起きたと思ったら17時。

 

はてなブログはいつ書けるんだ?今週は様々なことがあったのに。

最近読んだ本とか

ベイビー・グッドモーニングを読んだ。

the.河野裕!て感じ。どうでも良い話がほんと上手くて一つの才能だと思った。

世界で一番優しい言葉について、とか。

雲の形について、とか。そんな感じの。

 

絶望系、ずっと積んであったのを引っ張り出して読んだ。決着つけないとと思って。

決着がついただけだった。涼宮ハルヒを生み出した谷川流はどこ行った?

 

ルーの歌、面白かった。サメのオヤジを生み出しただけであの映画の価値はある。話は散らかってまとまりがない。善意に満ちすぎ?

 

明日からもまた、異なる価値観の対立に備えてテンションを保ち続けなければならない。いい加減にムカつく。

 今日はここ最近で一番心が落ち着いていた。ここ一年でも一番?

だから絵も捗った。そもそも創作とはこういうものなのかもしれない。

なんだか別の関係ないところで足踏みをしているような気がする。トップスタジオになるためには、スタッフの情熱、知識、志もとても高いものが要求される。

 

そんなところで、たくさんの矛盾を抱えている気がする。

 

思考

きちんとした生活態度を送ればきちんとした思考ができる。ここ最近、考えるための空白の時間が足りないと思っていたのは、欲望に爛れた生活を送っていたからだろう。予定が潰れた土曜の夜に、徹夜明けでろくに寝てないくせして終電をまたいで続けて2本も映画を観に行ったり、平日に新宿のとらのあなまで出向いてfate extra matelialを買ったり…

それは、なかなか楽しくて、それなりに充実していたのだが。

 

責任が伴い、体の変化が著しい。

僕はそうしたいからそうしているだけだ。自分の欲望に素直に従っているだけだ。

先行世代への憎しみに似た感情が消えない。近くにいる誰の言うことも、少しだけ間違ってるような気がする。もっと上手いやり方があるような気がする。

個人に依存しているようじゃダメなのだと思う。半分半分。個人依存がなければ成立しない仕組みではあるけれど、そのトップの人が他者への共感を捨て去ることが問題なのだ。

ある人がそのことを、欠陥という言葉で表していた。しかしだ、当時はそうしなければならなかったことはわかるが、今の自分がそうしなければならない道理はない。

 誰かが面倒を見なければならないのだ。しかし個人依存だから誰もが放っておく。そのくせ一人前に人が育たないと不満は言う。

さあどうなるだろうな、芽は出ないかもしれない。育てるってことはそもそもそういう保証がない。

みんな残ってくれれば良いというのは嘘。俺が今できるのは物入れを絶やさず管理するってことだけだ。あとは自由にやってくれれば良い。

 

やっぱりアニメが好きで好きで入ってる人とか、良い作画が描きたいという欲望に忠実な人とかでないと、どこかしら距離を置いたり、見下げたりするような感情が自分の中にあるように感じる。

それは今日自分がA1のエロマンガ先生を見てこんなことしてる場合じゃねぇって思ったせいかもしれないし、

昨日言われたことが原因かもしれないし…

 

 

アア駄目だ、喋りすぎると、うっかり余計なことまで喋ってしまう。

この声が近くの聞こえてはいけない人に、聞こえてるんじゃないかしら。

 

それが怖くてならないんだ、けれど、

怖がってるだけでもいけないな。

 

 

 

 

なぜ僕らは本音で話せないのか問題。

女性はその辺強いよね、なんでだろう?

これが今僕らを生きづらくさせている問題の気がしてならないから、今日はこういうことを考えつつ絵を描いたり散歩して過ごすことにしよう。

 

 

 

○○さんにメール送らなあかんこと考えると憂鬱でならない。

他人と交わると絶対またうまくいかないことばかり起こるに決まっている。

 

 

「折れない心」を持っていると今の時代さんざ話の通じないキチがい扱いされてポリコレ消費された後すぐに忘れられて捨てられるに決まってる。

こんな社会狂ってるしホントに早く死ねば良いと思うよ。俺が。

 

 

 

 

5月14日

そんな人間関係のパワーバランスなんてどーでもいーよー...

俺はただ自分で絵が描きたいだけなんだ。ホンット糞食らえだね、そんな心底くだらないことに時間取られんの。ああだんだん腹が立ってきた。

 

俺はちゃんと新人動画の面倒も見て、締め切りまでに終わらせてるし、新人たちも終電までには帰してるし、イベントもできるだけ参加させるようにしてっし。

その上でDVDリテイクだってちゃんと12日までに終わらせたし、自分の仕事もちゃんとカバーできている。日々ポコポコ生まれる時間取られる上に複雑で厄介な雑務も全部こなしてるはず。

 

そのうえ好きじゃない遊びごとにまで先輩に気を使えと?ハア?ふざけんじゃねーぞ?

これくらい自分の好きにやらせろよ。

 

 

そんな感じで1週間が過ぎた。言葉にしてみるといかにも怒っているように見えるけど、実際のところあまり腹は立たない。自分でカバーできる範囲の出来事ならば、自分の中で、きちんと筋が通っていればそれはそういうことなんだからと粛々と受け止められる。

しかし、その余裕はゲームのライフポイントのようにダメージを受けると減って言って、余裕のあまり溜まって居ない状態になると、それはそれで自分の気持ちを守ることが最優先になる。

 

ホントに社会ってクソだわ。

 

 

 ↑結論がこれだもんなあ、まだ思ったより回復してないんだよ自分←

 

 

 

 

5月4日

陽が落ちるのが早い。1日の速さを実感しながら生きている。

 

不安というのが一つの大きな問題点となっていて、これにより依存が発生し、自分の生活をより非生産的なものにしてゆく。

その不安感を満たす刹那的なものに救われた気分になって、それに対して意味を見出してしまうからだ。

人間は不安を消すことはできないようになっているらしい、感情というものは原理的にそういう仕組みで成り立っているらしいので、その大きく重い鎖を纏いながら歩いていくことが重要になる。だからこそ厄介な代物な訳。

その代わりに、疲労というものは感じずに生活している。

おかげさまで。疲労感というものこれまたとりたてて厄介な訳。

だから疲労感を癒すための刹那的な快楽に振り回されることはない。

 

 

正しさを断定することについて考えた。

これが実に難しい。なぜならたいてい現実で起こる諸問題は、その表面と裏面のどちらの意見も汲み取ることができてしまい、結果的にそれらの矛盾を自分の中で抱え込みながら曖昧にやり過ごしていくことになるからだ。どちらか一つが正しくて、その一方は間違っている、なんてことは滅多になくて、それら意見の対立は当人にとってはどちら側も自分が正しいと感じていて、そしておおよその場合どちらの言い分も納得できる。どちらか一方が絶対的だという「確信」を感じられるのは滅多にない。

だからこそ、正しさの断定は時に暴力に変わり、否定される側に対し時に暴力的に働く。

人間は黒と白両方の価値観を頭の中に混在させたままどちらが正しいか考え続けるようにできている。

 

そして確信が持てないまま悩み続ける心は不安定であり、不安定になった心は安らげるものを必要とする。

(しかしそのための手段が初めに挙げた、断定することだったりするのかも。)

・何かを断定すること    他には、

・誰かを蹴落とすこと、自分より能力が低いと証明すること  

・同じ価値観の仲間を探すこと

 

.安易な方法で言えば新興宗教に入信したり酔っ払ってそうした悩みを考えなくしたり、あとは普段の価値観や関係性をその瞬間だけ無効化させる祝祭空間に身を置く等...

 

 

 

不安定なものはたいてい安定化しようとするから、この種の不安感を純粋に感続けながら生活を送ることは結構難しい。結局鮮度は落ちていって、初め決めた矜持は何処へやら、誰かを嘲笑したり皮肉ったり、心が通じ合う人がいないと嘆いて見せたりすることになる。はじめに決めた理想よりももっと現実的でスピーディな、不安をおさめる具体策へと収斂してゆく。

 

その結果、何が起こるか。理想はそのまま頭の中に残っているから、自分のとってしまった行動と、とるべき理想の行動とのギャップでまた心は荒んで不安定になってゆく。

 

この種の文脈をとっておくことは存外に難しいぞ、みなさんどうしていらっしゃるのかしら。

 

 

価値観の合わない相手には言外に見下すことで不安を安定化させることを図ってきた俺はまさにこの種の矛盾に苦しめられてきた訳だ。

 

しかしその上で、絵を描くことというのは自分の正しいと思う価値観、安らげると思う価値観を相手に向けて「断定」することになる。この種の問題に拘泥していると、最終的には何も描けなくなってしまうことになる。

(「何も描けない」はないにせよ、それが無意識に働いて、想像力のストッパーになっていうということは考えられる話だ。)

 

普段の生活を大事にしようと思った。それが安定化をもたらす堅牢な土壌の役目を果たしてくれていたはず。女性はそのへん強いよね、と思った。

 

しかし、こういう風なことをぼんやりと考えていると、アニメは楽しい!絵を描くのって楽しい!って無邪気さがいかに一面的な考え方かってのがわかるよなぁ...

アニメを作る上で半分くらいは、こうした価値観の違いによる苦しみを感じ続けなければならない訳で。純粋な楽しさってのはもう半分くらい。

 

不安を感じていると心の中に相手のことを受け入れるだけのスペースが取れないので狭隘になってしまって困る。