5月2日と吉良吉影に関しての偏愛

なぜ、何もしないままで生きていくことは駄目なんだ?

何も変化しないゆえに、自分を苦悩させる外界からのストレスを全て排除し続けて、自分自身が本当に意味で安らげる風な感覚を感じ続けながら、無為に生きていくことはできないのだろうか。

その一方で、それは無理なことで、不可能なことで、多分実践したら様々な面で摩擦や軋轢や無理が生じ、結果、最も苦痛を生む生き方になるのは目に見えている、

はっきりと、分かっている。

 

吉良吉影になりたい、アイツ生き方に俺は共感するなどとボンヤリと考え続けながら2時間ほど散歩をする。苦痛も痛みも感じていないから、数日前のように差し迫って思考はしない。本当のところ何も考えていなかったのかもしれない。

 

DVDを五枚借りてきた。映画を見ようと思ったのだ。

現場を回すことで抑圧してきた、曖昧なにやにや顔を浮かべて脇に置いてきた、しかし創作をするにはそれが最も大事である自分の本当に好きなものを満足させるために、とりあえずチェック項目をいくつも用意して、消化しようとしてみた。

リードオアダイ、ウェイクアップガールズ、宇宙パトロールルル子ヨスガノソラダンタリアンの書架

臨時収入が入ったので、GEOで逆転裁判4を買ってきた。

金がない、時間がない、明日の仕事のために気を散らせない、飲み会がある、気分が乗らない、これを経験するには2、3日くらいの休みが必要etcetc...

全ての言い訳が満たされた、理想的な環境にいるわけだ今は。

ここでやらないって馬鹿な話はないだろう?

 

起きて描いて寝て、また起きて飯食って描いて寝て、アニメ見て飯食って映画見て描いて寝て、起きて描いて寝て.....

という学生の頃のような荒廃した生活を続けていると、どんどん刺激が単純になってって、無気力なアノミー状態になってくる。

しかし、ここにこそ自分が自由に絵を描けるようになるための問題点が潜んでいるような気がしてならない。

誰かと話したいと思わない、誰かに近づくとまた複雑な問題が発生して、気分が憂鬱になる。そういうところが、つまりは誰か他人と近づきたいと自ら思えないところが、おそらくはそんな巫山戯た状態を作り出しているのだろう。

しかし絵を描くには理性が邪魔で、そう言う状態にならなければならなかったからこそ、俺はここ1年半、必死で周囲の中に自分がいる感覚、いわゆる群像の感覚をつかもうと働いてきたんじゃないのだろうか?

今いる状態の中で、絶望しないで生産的な活動が「自由に」できるようになるために?

 

何だろう、そう考えていくうちに俺は、吉良吉影のようになりたいと思って嘆いた先に、何か違う別のやり方があるような気がしてくる。何か別の、その対立した2つの問題点の間で硬直状態になった結論を打開する、3つ目の解答が眠っているような気がする。

絵が上手くなれば上手くなるだけ、その種の呪いから解放される気がする。

 

何だろう?また明日描いてみるか日記を?

そんで今日と明日、二つの日記を客観的に並べて見て、また最初っから考えるか?

 

この種の社会に対する徹底的な不信感が、カフカの小説というモチーフを介して、一般化される気がするんだけどなあ。

 

 

4月29日

休日前に朝まで飲んでから、16時ぐらいに起きる。

なんか文学的風な日記を書きたいなあと思うが、衝動をそのままぶつけているのでそうならない。

今日からGWだが、まだ土曜日なのでそういう気分にならず、映画に行ける可能性をいろいろと弄びながら実際には行かずloを描いている。

昨日の飲み会の話を頭の中で反芻する。面白かったことを思い出して大声で笑って、辛かったことを思い出して憂鬱になる。

動画ばっかりやっていて、すっかり自分の絵を描くことがなくなってしまった。

「時間がないだけで、描いたらすごいいい絵が描ける」というのがただの言い訳にならないようにじっくり時間をかけて絵を描こうと思う。

 

 

予定されていたんだけど、突然ばーん!と入ってきた空白の時間、まずはここ3ヶ月くらいのことを思い出して、これから進む道を考えてみようと思う。

4月16日

昨日から取り組んでいたloを13カットあげた。

そのまま寝て16時に起きる。

洗濯と片付けと洗い物をして、マクドへ行って飯を食べて、ニトリでテレビ台を買ってきた。これで快適な映画ライフ

早くこないだ買ったマルコムxを見ないと。シングストリートは最高すぎたけどな。

新宿行って21時20分からのララランドを見てくる。

昨日の夢

動画監査の人が血の滲むような修正をして、実際にその人の肘の下に血が滲んで後が付いていて、色々忠告をされたけどよくわからない。誰かに呼び出されて会社から急いで帰る途中、駅でその人と先輩に会う。またうだうだした会話。やっと帰ろうとした後今日のお礼を言い忘れて戻るも、誰かと話していて話しかけづらい。衝立に隠れ機を伺って出て行くと、ちょうど見えない位置に移動されている。気づいていて避けられてるんじゃないかしら。諦めて帰ろうとする。最寄りの路線を探すのにボードを見ながら駅の外にかけ出ると、いつの間にか履いていた靴がなくて、俺はこんなことばっかりだとか思う。仕方なく靴下のまま外を走っていると、チャリンコに乗った大学の同じクラスの女子に出会い、青い靴あったんだけど君のじゃない?時かれ、探してたんだよ〜と中を見ると、ヒール。しかもそんなに青ないし!むしろ黒っぽいそれを見ながら、これちゃうわ〜というとやっぱりかという反応。

帰り道、この坂を越えたら最寄りの町だっていう坂がなぜかこの街で一番高いことになっている。両手も使いながら登ると最後の3軒、民家の中に道がある。1軒目は空き家、犬がいたのは知らなかったので、頭がのぞいて情けない声をあげる。2軒目も空き家。3軒目、汚いが人が住んでいるようだが、通るたびいつも誰もいない。最後の部屋のドアを抜けようと狭い廊下を歩いていると、横の木窓からグラサンとメットをつけたバイクで信号待ちしてる人の頭が覗く。一瞬びっくりするが黙ってそのままガチャガチャ!と扉を開けようとしてると泥棒だと思ったそいつが声をかけてくる。

ちゃうわ、通りたいだけじゃ!

暴言の応酬をしながら、逃げ切って仕舞えば勝ちとばかりにその部屋を通り抜けようとするも、なんだか急に小さくなり、腰が引っかかって通り抜けられない。部屋の向かいにドアがあり、出口がもう見えている。しかし、あそこまでたどり着かない。どんどん気が焦ってくる。そのうちに男がナイフを取り出したので慌ててバンッ!と木窓を閉める。ボロいので、隙間からナイフがのぞいているが、そうして時間を稼いでいる間に横の通路から外に出て、細くて高いところにある道を通って逃げると横でまだ気づいていない男が窓を叩きながら大声で叫んでる、その横を通って逃げる、そんな夢。

 そうか、わかりました。ワタシわかりました。

絵を描いたら自分本院あって他人を不幸にする、とか、考える必要ないんだ。

現に今、絵もかけるし、べつに自分の世界で閉じこもって、二進も三進もいかなくなってないじゃないか。

大切なのは、絵描きとしてのこの共通の感覚、共通語を感じているかどうかなんだ。

それをなくして、ただ普段の会話だけに気を使っていても、本当のところ何も話せない。

絵を描きたい、絵を描く喜び、そして、その感覚を共有できる仲間、

これと同じことを、相手も考えていると思えるかどうかなんだ。

 

 

朝帰りして、モーニングセットを食べるために近くのジョナサンに入ると、席でなかなかイケてる感じのお兄さんが眠っていた。この人がとても巧いアニメーターをやっていて、一人で仕事を回していて、家庭も生活もあると考えてみると、それはとても良いことのように思った。

 

座った席に新聞が置いてあり、注文したものが出てくるまでの間、なんとなく眺めている。大学教授がトランプ政権について書いたコラムが載っている。

グローバル化とは、市場経済が国境を超えた状態で、それは保護主義と対立する。西欧は昔からその対立を緩和させるやり方を模索してきた…

柔軟な保護政策は、さらにグローバル化を進めるのにも役立つとのこと。

でも、そこまで前へ前へ進まなきゃならんもんだろうか。

今の僕の望みは、周りの人と緩やかな人間関係を築きつつ、自分の欲望を納めるための創作行為をし続けながら人生を送りたい。

競争や目標など無意味なのだ。

 

長い長い動画、🅰セルだけで60枚もある動画を割っている最中に、差し迫ったことを色々と考えた。全部終わって思い出そうとしてみるけど、頭の中から綺麗に消え去っている。

いや、通り過ぎて行ったと言うべきか。

 

自立したいなあと思う。いや、自立したくないのか?

変化したいなあと思う。いや、変わりたくないのか?

 

 

昔の方の高校教師というドラマを作業中によく見ている、濃密で穏やかなテンポで進む人間関係がとても心地良い。

 

トップアニメーターの人が、社内に上手い人がいなくてつまらないって言ってた話を聞いてへこむ。

俺はどうなんだろう?

 

というか上手くなりたいんだろうか?

 

 

自分の仕事をきっちり終わらせることで、マイタイムを確保しようとする試みは、その基準値ラインである最低限の仕事量をやっとこなすだけで、へとへとになって毎日帰路につく。

 

そうして俺の創造性は日に日に目減りしてゆく。

 

 

希望がないとまでは言わないが、その色はまだ燻んだ東雲色をしていて、

きっともうすぐ日が昇るんだろうな、実際。

 

 

最近そんな感じですわ。

どうなんでしょうな。

 

 

 

 

空想的マキャベリズム

家に帰るともう10時だ。

 

 

明日早起きしようと思って早めに寝ると、絵を描いていないから体調が悪くなる。

 

そう思って3時ごろまで絵を描いてから寝たら寝不足で体調が悪くなる。

 

てことで結局は休日のリズム=十分に寝て、十分に絵を描いた後、会社へ行くのが

最も良いコンディションになることがわかった。

 

でも、そうなると、やっぱり外へ出るのは一日置きというのが最も良いリズムになる。

学生の頃とか不思議じゃなかった?どういうワケで皆毎日学校へ通えるのか。

 

 

今日会った悲しみや嬉しさ等、様々な正や負の感情的反応を咀嚼して反芻して、気分を鎮めて、新たに何かやろうという気になるまで、24時間ほどの冷却期間は必要だろう?

 

 

わかったから折衷案的に中間地点を取り続けることで、だんだん想像が現実にソフトラーンディングしていく。

 

 

どれだけヒドくてもっと他人を思いやるべきだと思っていたことでも、自分で面倒見切れないほどの負荷ならば、きっぱり捨て去って自己利益を優先するのになんの問題がある?

 

 

それでも、やっぱりそれは罪深いことなのだ。

しかし、その罪深さを感じながら一方で平気な顔してられる何も分かってないあいつららみたいにはなりたくない!

 

矛盾から何かしらの創造的行為は生まれるのです。

 何か生み出せると良いね。ほんとに。