そうか、わかりました。ワタシわかりました。

絵を描いたら自分本院あって他人を不幸にする、とか、考える必要ないんだ。

現に今、絵もかけるし、べつに自分の世界で閉じこもって、二進も三進もいかなくなってないじゃないか。

大切なのは、絵描きとしてのこの共通の感覚、共通語を感じているかどうかなんだ。

それをなくして、ただ普段の会話だけに気を使っていても、本当のところ何も話せない。

絵を描きたい、絵を描く喜び、そして、その感覚を共有できる仲間、

これと同じことを、相手も考えていると思えるかどうかなんだ。

 

 

朝帰りして、モーニングセットを食べるために近くのジョナサンに入ると、席でなかなかイケてる感じのお兄さんが眠っていた。この人がとても巧いアニメーターをやっていて、一人で仕事を回していて、家庭も生活もあると考えてみると、それはとても良いことのように思った。

 

座った席に新聞が置いてあり、注文したものが出てくるまでの間、なんとなく眺めている。大学教授がトランプ政権について書いたコラムが載っている。

グローバル化とは、市場経済が国境を超えた状態で、それは保護主義と対立する。西欧は昔からその対立を緩和させるやり方を模索してきた…

柔軟な保護政策は、さらにグローバル化を進めるのにも役立つとのこと。

でも、そこまで前へ前へ進まなきゃならんもんだろうか。

今の僕の望みは、周りの人と緩やかな人間関係を築きつつ、自分の欲望を納めるための創作行為をし続けながら人生を送りたい。

競争や目標など無意味なのだ。

 

長い長い動画、🅰セルだけで60枚もある動画を割っている最中に、差し迫ったことを色々と考えた。全部終わって思い出そうとしてみるけど、頭の中から綺麗に消え去っている。

いや、通り過ぎて行ったと言うべきか。

 

自立したいなあと思う。いや、自立したくないのか?

変化したいなあと思う。いや、変わりたくないのか?

 

 

昔の方の高校教師というドラマを作業中によく見ている、濃密で穏やかなテンポで進む人間関係がとても心地良い。

 

トップアニメーターの人が、社内に上手い人がいなくてつまらないって言ってた話を聞いてへこむ。

俺はどうなんだろう?

 

というか上手くなりたいんだろうか?

 

 

自分の仕事をきっちり終わらせることで、マイタイムを確保しようとする試みは、その基準値ラインである最低限の仕事量をやっとこなすだけで、へとへとになって毎日帰路につく。

 

そうして俺の創造性は日に日に目減りしてゆく。

 

 

希望がないとまでは言わないが、その色はまだ燻んだ東雲色をしていて、

きっともうすぐ日が昇るんだろうな、実際。

 

 

最近そんな感じですわ。

どうなんでしょうな。

 

 

 

 

空想的マキャベリズム

家に帰るともう10時だ。

 

 

明日早起きしようと思って早めに寝ると、絵を描いていないから体調が悪くなる。

 

そう思って3時ごろまで絵を描いてから寝たら寝不足で体調が悪くなる。

 

てことで結局は休日のリズム=十分に寝て、十分に絵を描いた後、会社へ行くのが

最も良いコンディションになることがわかった。

 

でも、そうなると、やっぱり外へ出るのは一日置きというのが最も良いリズムになる。

学生の頃とか不思議じゃなかった?どういうワケで皆毎日学校へ通えるのか。

 

 

今日会った悲しみや嬉しさ等、様々な正や負の感情的反応を咀嚼して反芻して、気分を鎮めて、新たに何かやろうという気になるまで、24時間ほどの冷却期間は必要だろう?

 

 

わかったから折衷案的に中間地点を取り続けることで、だんだん想像が現実にソフトラーンディングしていく。

 

 

どれだけヒドくてもっと他人を思いやるべきだと思っていたことでも、自分で面倒見切れないほどの負荷ならば、きっぱり捨て去って自己利益を優先するのになんの問題がある?

 

 

それでも、やっぱりそれは罪深いことなのだ。

しかし、その罪深さを感じながら一方で平気な顔してられる何も分かってないあいつららみたいにはなりたくない!

 

矛盾から何かしらの創造的行為は生まれるのです。

 何か生み出せると良いね。ほんとに。

 

4時40分になってもまだ起きている。

 

こないだ松紳で、紳助が夜テレビつけて明るくして寝るのは、そうしないとなにかわるいことを考えてしまうからだと喋っていて共感する。

 

ガキ使の松本と浜田のトークに毎回笑う。

 

矢島美容室とんねるずだということを最近知りやっぱとんねるずは嫌いだなと思う。

 

隣の家の少女の映画化は失敗だなと思う。

 

 

ジムノペディに乱れてという板尾創路主演のロマンポルノ映画を知りdmm.comでDLする。

 

 

 

誰もいない真暗な部屋で横たわり誰かを抱きしめたいと切実に思いながら布団にくるまる。

 

 

 

依存している安心感から抜け出せなくて狂おしい気持ちになる。

 

 

憂鬱が収まると退屈が始まり、

予測できる明日に苛立たしくなる。

 

 

自分のことを自分で決められるようになりたいと思った。

 

こんなに仕事を詰め込んで、一体俺はどうする気だろう。

自分のためにやっているということは確かだ。

現場をうまく回したいという苛立ちも確かにあるが、

何か具体的なものを掴めそうな気がしてならない。

 

何も役割がなくなれば、突然にやってくる虚脱感、喪失感の類。

それがあるから、こんなに仕事を詰め込むのだとも言えなくもないが、

やはりそれは理由の一つでしかなく、根本的に解決したいという願いから

仕事をしているのだと思った。

何もしないということをしたい

端的に言って何もしたくない。本当に何もしたくない。

仕事一本終わらせたし、いいだろ別に。

先日から感じている喪失感は未解決のまま、今も私の胸の内でくすぶり続け、

うまくやりくりしながら日々を送っている昨今。

呆然とできる場所へ行きたい、と思い、唐突に上野公園のことを思い出す。

仕事終わったら行こう、という希望を心の支えにその日をやり過ごすが、そんな時間に終わるはずもない毎日。

 

最近ぼーっとしていることが多い。これもまた、仕事が快調に回り始め、以前感じていた憂鬱感が軽減されたせいだろう、と思い、そんな分析すらも馬鹿らしくなる。

そんな小賢しい自分の心の検分とかが、日々の情緒や生活を矮小にまとめ上げ、精神を貧しくしていくのではないかと思う。

 

ゆめくりの博さん上手いなぁ、こんな漫画があったんだ。白浜鴎さん上手いなあ、絵ってこんな風に描くんだ.....

自分にとっての良いものに耽溺して微睡みながら、理性も秩序もない混沌とした休日を送りたいもんだと思う。

モラルを破壊するのはとても気持ちがいい。(と書くこともまた一つの自分の中でのモラル破壊であるとても気持ちがいい。)だから人はけものフレンズを見て退行して遊ぶのだし俺だって例外なくその一人だ。責任なんて取りたくないしメンド臭い会話なんてしたくない。それが自身で自由にコントロールできない強大な恐怖感から強要されるモラルならなばなおさら。

 

とりあえず今日も自宅へ生還できた、ああ疲れたなあ。

家に入って独り言が多くなり、外にいた時は「ふつうの社会人」になるためにどれほど緊張していたかがわかる。変になり方が頭の中でわかっている分、本当にしたいことを抑圧させているストレスにいつも晒される。

一人の時間ってほんと最高。本当に楽しいし楽だ。

でも一人の時間ばかりってのも嫌だ。大事なのは、両者のバランスなのだ。

生活のリズムをだんだん変えればいいんだよ、と、賢しい頭の一部分が、具体的な解決案を提示しようとしてくるけれど、

今はそんな心底くだらないことより、共感してくれる誰かが欲しい。

 

お、何か終わり方「女生徒」っぽい?

 

 

道満晴明の「オッドマン11」と、高橋葉介の「Uボートレディ」今日TSUTAYAで見かけた。欲しい。

「健康で文化的な最低限度の生活」読みたい。

 

男性オタクたちの女性への欲望が萌えキャラと化してそれがだんだん一般化されて女性にも受け入れら「れる(自発)」様になった昨今、女性オタクたちの男性への欲望も一般化して男性に受け入れら「れる(可能)」んじゃないだろーか

新しい時代の男性キャラを生み出せる可能性を妄想する。

女キャラ主人公の漫画多すぎじゃ?

俺が選り好みしてるだけかもしれんけどな。

でも問題は「そういう漫画を読む奴が」好む男性キャラが、なかなかいないってことなんだよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

continue...

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なんだか多幸感に溢れたような日記を書いているが、とりたててそんなに幸福でもない。

先々週と、先週は特に楽しい出来事が続いただけだ。目を閉じると喪失感がやってきて、微睡んで、眠りに落ちてしまう。生活が堕落して、思い描いた通りの理想的な生活を送り続けることが困難になってしまう。

しかし、これこそがなんらかの創作に対する根源的なモチベーションになっている気がしてならない。本当に無駄足を踏んでいるのだとすれば、俺は即刻、この無駄な時間を切り捨てて、効率的に、自らの理想通りの生活へと矯正するのだろう。

しかし考えて見ても、そうしなければならないような気はしない。このことについての考えとは、全くもって曖昧で論理性など皆無だが、なんとなく、俺の人生はこの直感に従って、今まで生きてきたような気がするのだ。だから直感にしたがうことに迷いはない。

 

新豊洲から、豊洲へ向かって歩いていた。午後9時過ぎ。遠景に光るビル群と、誰もいないゴーストタウンめいたモデルハウス、それらが織りなす一種退廃的な雰囲気を感じながら、俺は全く普段の生活と切り離された、異質な感覚を味わう。

この普段の生活というのが意外と強大で、何かご大層な理想やお題目を思いつき、それの通りに行動すると誓ったとして、2日、3日経つと、もうすでに普段の生活の、そのルーチン化された感受性や手順に取り込まれて、霧が晴れるように冴え渡った、あの感覚を忘れてしまう。そして人間関係で溜め込んだストレスを癒すために、インターネットやテレビに転がっている、それを発散させることに特化した様に作られたコンテンツを貪り食い、明日へのコンディションを虚ろに整えるのだろうと思った。

 

俺は様々なものを見る必要があるんだと思う。なにかでかい仕事をやりきった後、2週間ほどまとまって休みをもらい、バイクを買って、遠くへ旅に出たいと思う。

2日間、また例の喪失感を味わって、暗闇の中でベッドに横たわってぶるぶる震えながら、なぜ俺はものを作らないんだろうと嘆いた。エゴだとか、公的だとかそう言ったことが全てどうでもよくなる感覚を想像して見る。2者間の対立から止揚された、3つ目の答えについて抽象的に考えを巡らす。最近グリーンマイルの1巻を読み終わり、またBOOK OFFへ行って2巻を購入する。せっかく買ったそれを読まずに電車の中でも、目を閉じながらずっと考える。

 

何かに自由にならなければならないと思う。先行世代のおためごかしや嘆き事に、一々取りざたされる必要はない世界を夢想する。自分の意思というものが存在するのかということを考える。

 

本当に何もする気が起こらない。別にこれは不安がったり、恐れたりするものじゃなく、ただそういう「時期」なんだと思う。

 

明日もまたいつもの様に、俺は社会を動かすものの一部と化して、先輩に気を使ったり、後輩に気を使ったりしながら過ごすことになるだろう。

そこに幸せはあるのだろうか?