妄想かくあるべし

 帰り道茫然自失で歩いていて、この状況を打開するには、妄想しかないとの結論に至る。いつの間にやら家についている、どうやってたどり着いたのか覚えていない。

最近の生活は結構なものだ。仕事は楽しいし(相変わらず量は多いけれども)、休みには何らかの創作物に触れてもいる、一人の時間はめっきり減ったが、少なからずの損失あれども、ある意味ではいい方向に働いているように思う。

寝る前に妄想、電車の中で妄想、絵を描いている時も妄想、かくあるべし。このような閉塞した状況を打開するには、理性を保ったまま、別世界へ旅立つ必要があるのだ。

現実世界との紐をつないで、フワフワと頭の中をたゆたう必要があるのだ。

 

 グレイテスト・ショーマンと言う映画を見る。ララランドの後釜狙いの、完全に商売を目的として作ったような映画だとの感想。作り手側の、この類の思惑を嗅ぎとってしまうと、おそらく自分の偏見もあるのだろうが、一度そうだと思ってしまうととたんに辟易して、全てをその色眼鏡で見てしまう。106分という短さも、回転数を上げることを狙っているとしか思えなくなる。冒頭のつかみの構成もララランドがよぎる。

ああ言う人間がいるんだよなあ、と、PTバーナム演じるヒュー・ジャックマンを見て思う。限りなく、何かを成し遂げることにしか興味がない奴。

その問題は依然として僕の中にあって、しかしさすがに昔ほどは振り回されない。ちゃんとああ言う人間と付き合う時の、落とし所は見つけたつもりだ。

 

 羊の木と言う映画もまさにそうだとラジオで宇多丸が言っていて俄然興味が湧いてくる。

受け入れることのできる領域をはるかに越境してくる、圧倒的な他者(殺人鬼)

このヒリヒリした感覚とその答えを、是非とも現実へ持って帰ろう。

なんせ「衝撃と希望のラスト」だからな

 

 ミシェル・ウェルベック「闘争領域の拡大」と言う本を、また憂鬱でイライラしていた日曜日に、新宿のジュンク堂で見つけて買って読む。現実世界の非道い物、見たくない物、悲劇的な物ばかりが目についてしまう。しかし、日常生活をそつなく過ごすだけの、些細なルールはこなせるだけの社会性をかろうじて備えてはいる。そんなくたびれた生活の、限界を迎えた話。スルスルと文章が水のように入ってきて、ああそうだ、自分はこう思っていたんだなんて思う。この人の世界を捉えるセンスは素晴らしく心地の良いもので、読み終えた矢先、別の本をamazonで注文する。頭の中の本棚の、個人的ベスト作家のラベルがしてある棚の中に、舞城王太郎平野啓一郎村上龍と並べて、ウェルベックをそっと仕舞って一人喜びに浸る。

 

 週刊少年ジャンプで連載していたフルドライブと言う漫画がついに終わってしまった。おっそろしく絵がうまくって、ちゃんと熱血少年漫画していたのに、寂しい限り。

赤毛のアチョーという同じ作者の読み切りを大学の頃にジャンプで見つけて一時期その絵ばかり描いていたのだ。何か強烈なシンパシーを感じる、感性が似ている、とても好きな作者だった。

しかしジャンプは、ある種のPTバーナムのような人物を求めているのだろうよ。はねバドの作者の時も感じたが。「分母を広げる」ことで切り捨てられてしまう何かに、強烈に惹かれるのだと思う。

 

創作物について色々書いたが、別に創作物に浸ることが妄想じゃなくって

なんか自分の欲望とか本能的な欲求を掘り下げて、体系化させてちゃんと他人に話せるようにする過程の事を言っているのであって。

もうすぐ寝るけど、寝た時に何か空想をしながら寝ようとしたのです。