5月3日
skypeできる?
何で電話出てくれないの?
...は?知るかボケ?あ〜あ、責任から逃れた生活を送っていたはずなのに、なんでこう日常生活を送っているとプカプカと現れてくるんだろう...
そうして罪悪感に苛まれながら一方でその罪悪感を鬱陶しいとも感じ、そんなものに囚われているから今までものが作れなかったんだと思う。こんなものに精神を依存させすぎてしまっているから、人間関係をうまく立ち回れないのだ。過剰な分を抑制したいと思い、一方で人との繋がりを自分の欲望よりも軽視するサイコな人間になることに恐れを抱いたりする。
そうして、それが単にアスペとかサイコパスの一言で片付けられないよう、反論のための理屈を頭の中で組み立てようとして見たりする。
●大逆転裁判を続けて、4章が終わる。動く絵のついて、インタラクティブな性質を持った小説を読んでいる気分、巧舟氏は関わっていないと思っていたがむしろこちらの方には関わっていて、6の方は無関係だった訳だ。
●ルル子を見終わって、やはり今石さんは天才だと思う。1巻で全話入っていて謎にパッケージ感があるのでDVDが欲しいなと思う。
どうでもいいけど吉成監督がリトアカでTP修正自分でやっているとインタビューで言ってて、少しやる気が出る。堤尚子氏はリトアカで初めてプロデューサーをやったのか、と、自分の会社と照らし合わせて見る。
●社会に対しての無力感は影を潜めている。そもそもが問題意識を感じていないから、何について考えていたのかも思い出せない。昼間、GWで子供や家族連れや犬で賑わう公園をDSに没頭しながら通り抜けて、世間の目を気にしない生活は意外と最高だと思う。
●フィール・ヤングを書店で買って、紀伊カンナの漫画が載っていないことに少し残念になる。代わりに志村貴子の漫画を読む。絵が少し変わっている。柔らかくなって、より省略された絵になった。そうしてその雑誌に出てくる女性たちのように自分の性別についてナーバスになることについて少し考える。
●ルル子のOPをDLしてしまう。絶望的になった時に聞いて無理やり気分を上げている。
絶望に立ち向かうように...等いろいろ考えていたはずなのに、それが過ぎ去ってしまうともう忘れてしまって、男が描けない〜と鉛筆を放り出しだらだらネットをしてしまう。
いかん、気をつけなければ。
●GEOで借りたアントマンが見れなかったので、別のDVDと取り替えてもらいに行ったら店員さんがタダ券を一枚くれる。
こういうところに、過剰に気を使ってしまう俺を、もう一人の俺が頭の中で観察する。
ある種の過剰さがあるから、それが逆転した時に冷静になれないのだ。不安の源流は過去の経験に根ざしているわけで、実体として存在しないじゃないか。今、ここにある現象としての会話なら、その不安を頭の中で中和しながら、もっとマシなものにできるはずなのだ。
もっと自然にできるはず。
●今のこの自分の感じ方で感じられる安心感が、他人の介入によって阻害され、とても大きな不安を感じる。他人から疎外されるのは怖いものだ、これがおそらくおれが他人と接したくないと感じる原因の全てであるのだろう。
拒絶されるリスク、疎外される可能性がわずかでも存在することが。
俺は俺の思う好きなものをもっと経験したいと思うのは、何かそれがそうした不安感から自分を守る唯一の大きな盾となるからで、自分の進む方向を示す道がより広く太いものに拡張されるような気がするからだ。
「ような気がする」というのが意外と重要なのだ。俺の人生はその予感の方向に今まで進んできたのだから。
自分がより安心できると思う方向に向けて。
●女子中学生がなりたい職業、1位が声優で2位がアニメーターだとかいうどこかから流れてきたネットニュースを見て、サブカルチャーが現実に侵食してきている速度のことを考える。
君の名、とか、ララランド、とか、創作物はより過剰に現実を綺麗に描こうとし、実際にやってみるとそうでもないな、ってことはあるかもしれない。
と、言いつつ絵の練習をしている。自分のその一端を担おうとしているんだけれど、と思う。
●ただ生きていくことは意外と簡単なのかもしれない。しかしそこに自分のポリシーとか考え方ってフィルターが入るからこそ事態がややこしくなってくるのだ。ポリシーを無くせば何にもイライラさせられずに生活することができる。しかしこれは生まれつき、自分が何に対して安心を感じるかってことなんだから、無視をしているとだんだん無理が出てくる。