今日考えたこと

 

想像力と適切な考え方によって他人から向けられる好悪の感情は双方向性なのだと知る。不可避の受難だと思っていたが、それは操作可能なのだ。自身の感情が変えられれば、実際の評価も変えられる。

と、気づいて、最近は他者と付き合う際、少し開かれているような、若干の変化が感じられる。

 

また今日も不義理を働いてしまった、スムーズな言葉遣いができなかった。くだらない日常的な、些細な自尊心のダメージも、その帰り道のひりひりと焼け付くような疎外感を弄んでいる自分がいる。

 

熱量の大きさが、手に余らないようになっている。

 

そもそも、1日に何度もそんな感じのことで凹んでいられないだろ?

 

今週末の連休父が海外旅行に連れて行ってくれるって!

→ヤッターッ!お父さん仕事不定期だけど頑張って休み取ってね!

→今回ばかりは大丈夫だよ!3ヶ月前から有給申請してるからね!

→週末が待ちきれない

→当日になって、やっぱゴメン!予想外の不祥事を部下がやらかした、先方に謝りに行って来ないと...

→ハ????あんなに楽しみにしてたのに!!!!????

 

俺が他人との付き合う過程で幾度となく経験してきたこういう類の裏切られた感じ。俺が他人に期待を寄せ過ぎだった、週末の海外旅行なんて何十回も行けば飽きて面倒な手続きのような感じになる。

他人の好悪の感情をアイデンティティの基盤にしすぎてたってことだ。

裏切られたやら、裏切られた自分が格好悪いやら、格好悪い自分が情けないやら、

それぞれごった煮になった複雑な思いで溢れかえってたけど。

なんとかなるような気がしてきたぞ、双方向的なんだったらね。

 

そもそも激情に駆られたままでは切実なものになってしまって、コンスタントに絵などかけないのだ。

自分の絵に関しても、適切な承認を得るために明日からまた奔走する。1回1回のチャレンジが生死を問うほどの重大事な訳がないだろう?意外とこの心理的な枷は「才能」トカいう評価基準上ではネックになってくると思うんだ。常人では周囲とのバランスの方に倫理感覚の余力を割いてしまう。その辺の楔が外れているか、外れていないか。

もしくは自分で外すかだ。楔をコントロールもできるぞ。ダムの流量調整弁のように。

 

 

俺の日々の生活を「意識的にする」といううざってー試みについて。

そもそもこのブログこそが、今日1日の頭の中を可視化?顕在化させる事を目的にしてるわけで。

何かに記しておけばその言葉は外側から入ってきて少し形を変えて重なり合い、そのズレの長さで自分の頭の中と現実とが乖離している距離がわかる。少しだけ客観性が付与されるし、その少しの客観性こそが意外に重要だったりする。

これも会社でスムーズに業務が遂行できない俺のウィークポイントを克服するためにやっている事なんだけれど(弱点の克服という自己実現的なものではなくって、スムーズに作業が流れていかない苛立ちをどうにかしようとしてやっているって方が正しいが)

と、いいつつそこからさらに深いところには、自分の絵(を描くための衝動(は、日常的な些事により引き起こされるうっとうしさや苛立ちや卑下により容易に濁って純粋なものでなくなってしまうから))をコントロォルしてコンスタントに捜索を繰り広げるという目的が根ざしているのだけれど。(最近の俺のすべての行動原理は「如何にしてコンスタントに創作活動を行えるのか」に集約するのだろうか?)

 

とにかくこれがうざったい。さらにそこから深い腹の底には「ふざけんな!無意識の時間こそが大事なんだよ!宮崎駿も言ってただろ!3時間くらい茫然と、ただ茫然とする事だけをして過ごしたいんだ!俺にはそーいう生活はことごとく合ってねーんだよ!」

っていう、なんだろう、アイデンティティに深く根ざした独特の怒りを湛えていて、その液体の中には自分のそういう一面と周囲との関係の間に意図せぬ拒絶や誹りを受けたという憎しみとか疎外感の経験がたくさん溶け込んでいる。

 

この地底湖が実に厄介なのだ。

 

例えば後輩から何か間違いの指摘を受けたとするだろ?俺が把握している事と現実との間には乖離がありますよって。その瞬間、後輩の声の振動はは瞬発的に地下の水脈まで到達し、共鳴して、何倍の憎しみにもなって地上へ戻って来る。

自尊心を阻害された憎しみだ。それがまた自尊心をぐらつかせ、精神の一貫性を保つのを阻害する。

これがすごくムダな遠回りをしている気分になるので、なんとかしたい。と、考えられるって事は、モチベーションは死んでないって事で、実際にショートカットできるはずなのだ。

 

成功体験を何度か積めば、脳内にその回路が出来上がり、次からはあたりまえな自分の一部のような考え方になる。

 

まあ、とここまで考えて、摩擦による精神の負担が満足のいく形にまで研磨された 理想通りのコミュニケイション・スキルが手に入ったとする。

そうなったときに俺は誰かに対して自分の意見を通す事ができるのだろうか?

 

というのも、

(これは昔からそうなっているせいで)他者のことを「思いやっ」たり「察」したりしながら、自分のエゴイスティックな感情を上手に引っ込めて、折り合いをつける術を身につける事が日本社会のコミュニケイションスキルならば、そういうものだと納得してこのまま僕が成長して行ったならば、だれかからエゴイスティックな「暴言」(ってニュアンスになるのかな?)を向けられた時に、俺はそれに対する「抵抗力」を持たないから、俺はそれに対してはうまいやり方を知らず、おれの精神を濁らせるに十分なのではないかと思うのだ。

 

(だって神武天皇以来一度も滅亡を経験していない日本だし、移民受け入れ率も極端に低いんでしょ?って聞いたよ?実に保守的じゃないか。危機的状況に立ち向かう機会が極端に少ない場所では抵抗力が必要なくなるのもわかるよ。)

 

「健全なコミュニケイション」=「自分の伝えた事を、相手が忖度してくれた、という満足感(他者の承認を得た)ことの積み重ねで自身もアイデンティティを発達させていく」

のだとすればだ、

「自己主張を引っ込め」るという技術を使っていては、その主張したい自己を誰かに「汲み取ってもらえた」という経験が得られないので、「自分の事を主張する」コミュニケイションのやり方はそこだけ未発達のまま進んでいくのではないかしら。) 

 

漠然とした危機感だけど、決して杞憂ではないと思うんだよね。

だからそのこと(俺の所属する日本人という集団が個人のエゴに対して敏感ということ)も承知の上で振舞うことが必要になるだろう。

 

まあ、このアイデア自体も俺の頭の中だけでの知識と経験をもとに組み立てたものだから、極めて狭隘な世界観に基づいて入ると思うんだけれどもさ、

合ってるにせよ間違ってるにせよ少なくとも、前術した「ムダな自尊心のダメージ」をショートカットするのには役立つから別にいいのだ。

というか、むしろその効果しか期待してないから。この説があってると証明されたから何だってんだ。自分のアイデンティティもその狭隘な世界観を持つ頭の中にしか存在していないんだからさ。

 

 

など。

こんな長ったらしいもんいちいちペンで書いてられっか。

 

 

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