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新宿にて

6月18日 ズートピア

6月19日10クローバーフィールド・レーン

を見た。10クロはJJエイブラムス監督じゃなかった。ダン・トラクテンバーグ。なんだそれ。

今日の休みは8時に起きて昼間にフジカフェで平野啓一郎「マチネの終わりに」を読む。なんだこのハイソな会話。ヴェニスに死す、が、芸術家の現実とエゴの葛藤の話だと聞いたので、TOHOへ行く前に紀伊国屋へ立ち寄って集英社文庫から出ていたものを購入。映画秘宝を探すもない。そんなにアングラ雑誌なのか?

 

はあ、はあ、と荒く浅い呼吸をしながら、自宅へ帰ってくると、日付が変わろうとしている。

最近は睡眠時間が短くて済む。6時間くらいできっちり起きて、有意義で効率的なな睡眠を摂ったと満足感で目がさめる。

これだ、これを望んでいたんだ。

朝起きて部屋を片付けた。起き抜けに風呂に入ったので風呂の中も掃除した。洗剤が切れかかっていたので駅前のドラッグストアで買ってきて、掃除用のウエット・シートも買ってきた。買ってしまったあとでこれは雑巾でも代用できるんじゃないか?と思ったけれども、ニトリで1パック98円で売っていたので、たいして悩むほどの問題でもないだろう。

散乱していた雑誌を片付けて、そのあと久しぶりに絵を描いて、長い間取れなかった退廃的で甘い蜜のような、それでいて諸刃の剣のように破滅へと向かっていく怠惰を貪った。

なんだろう、何かを買って、どこかのコンサートだかに行って、いいレストランで食事をして、

カネを払って、金を払って、そして金を払って・・・

消費生活を飛び石のようにうまく連鎖させていくことで、今度はその話をネタに周囲の人とのコミュニケーションを図る。

これが「生活」することなのか?

突然降り出した雨を、屋根の下のバス停でバスを待ちながらぼーっと眺めていた。はあ、はあと浅い呼吸がだんだん荒くなっていく。雨脚がじわじわと、まるでステレオのヴォリュームのつまみをゆっくり回転させていくように強まり、光に照らされて降り注ぐ白く細い線の間から、バスの光が躍り出てくるのが見えた。

座席に座りながら、今日会ったことを反芻して、何かにメモを取っておかなきゃと感じる。

この現実感のないクソみたいな不安はなんだろう?周囲の人との安定したコミュニケイションが図れないため心を落ち着けておく場所がない。心を許せる友人がいない、なんて書くと陳腐だが、友人といても、本当の意味で心が休まることなどない。でも僕には友人がいる。それは僕も心からそう思える種類のものであるのは間違いがない。

荒い吐息を落ち着けるためにおもむろに鹿爪らしい顔をして、深く息を吸って、吐いた。もう一度吸って、はく。1、2、3、4、5、6、7、8、9、10。

ヨガや禅の修行のように。歩き方が早足になってしまう時にはこれが一番効果的だ。息を一回吸い込むペースを基準に考えると、不安に急かされる心の働きはいかにも早すぎることに気づかされる。

10クロで、僕は危機的自体に立ち向かう人間の有り様を見ていた。今の俺に何ができる?今の自分の生活の、延長線上にあのような閃光のように光り輝く強烈な生命力があるのか?全てに抵抗する気力をなくして、布団にくるまって死ぬまで眠ることしかできないこの俺に?

そうだ、いいアイデアがひらめいたんだ。経験によって、現実を捉えるやり方をやめる、というのはどうだろう。

なにかもっと大きい物、希望が持てるもの、原理とか理想とかいうもの。

人が自由に生きられる考え、それだけを頼りに生きていくというのはどうだろう?

できなかった、という経験は、できないかもしれないという予感しか生まないからだ。

俺が映画を見たり、古典小説を読むのはそのためだ、何か現実を超える一瞬がたまにある。その一瞬のために映画を見る、本を読む。

はあ、今の仕事を続けて行った先に、何か求めるものがあるのはわかる。

だけど仕事から帰って一息ついて、回復がすんだら、もうやるべきことが思いつかないんだ、何か開かれてないって感じるんだ。何かおかしくないか?こんなものが人間の生活なわけがないだろう!?カネとモノさえありゃ生きていけるってワケないだろ!?

あーあ、絵を描くってことも、捉え直す必要があるのかもな。今までは自分のペースをつかむため、傷つかない方法で他人と交流するために絵という手段を使っていたのだけれど、生きていくベースとなるのは現実の生活、このクソみたいに退屈な生活なのかもな。会社行って、淀みやすい心のせいで意思疎通に問題があるから正確な情報伝達ができなくて、現場を混乱させて理解されないこのクソみてーな生活を必死こいて続けていかないといけないんだろうなあ。仕事としての、絵を描くという手段。決して自己実現のためなんかじゃあない。かつて与えられなかった愛情を取り戻すための、置いてけぼりにされた幼児性の魂の叫びの類であってはならない。

そんなものは、コンスタントに生産できないからだ。それを、趣味というんだ。

あーあ、映画の登場人物には皆それなりにそれなりの過去の経験がある。虐げられ、抑圧された暗い感情を抱えていても、何枚か思い出せる色あせたベスト・ショットを持っている。

僕はあんなふうに自由に振る舞えない。これが意味するところはなんだろう?何も別に、それが逃げようのない神的なものの采配だとかいうつもりはない、あくまでもただ単純に、冷徹な現実がそこに「ある」だけだ。

 

疲れた。切実なやり方でものを書くには限界がある。全てがやになって途中で投げ出す。絵に関してもそうだ。切実なやり方で書いていては体と心が持たない。

自由に生きたい、自由に生きたい。