歩くこと。

私はよく歩く。特に夜道を歩く。特別夜道が好きってわけじゃないけど、勤め先から帰るのが深夜近くになるんだから当然だ。昼間も歩く。特になんていう用のないときは隣町まで行ったりする。特に目的はない。あるのだが、それは電車に乗って外の風景を眺めている時に、あ、ここにこんなものあったのか、よし行ってみようと思い立っていくような、あまり意味のない場所ばかりだ。その場所へ行くことが目的なのではなく、行く過程が重要なのだろう。

 外からの刺激に敏感なことばかりだと、1日の終わりには感情が浮き足立って、誰彼構わず依存したくなる。言われた言葉の意味の裏側を推察して憂鬱になったり、感情に任せてポリシーに反するようなことを言ってしまったことを思い出して憂鬱になったりする。

 だから歩く。歩いているうちに今日会ったことを何度も思い返す。逆にいいことばかりあった日の帰り道は良い感覚がリフレインしてとても幸せな気分になることもある。ただそれも憂鬱な気分の過剰なリフレインの裏返しなのだなとも思う。何度も思い返しているうちに、次第に気分に地に足がついてくる。何度も何度も思い返す、戒めだと思って思い返す。他人にとって取るに足らないことなのだなとわかるようになったのは何年か前だ。それまでは自分の受け取った憂鬱の総量は、そっくり相手に帰っているんだと思っていた。自分の抱える憂鬱に対して正の方向に、または負の方向にも。

起こった憂鬱を手玉にとることができるようになったならしめたものだ。次からそれくらいの負荷は日常的にやり過ごせる。そうやって私はポリシーを作る。アイデンティティを作る。知人の話す家に置く家具選びの話や服の話、雑貨や恋人の話に曖昧にうなずき笑顔を浮かべることしかできない私はそうやって自分を取り戻す。他人に対して時間を割くことと、自分の内面に時間を割くことは等価値なんだと知る。どちらが欠けてもうまく回らない。どちらか一方が過剰では歪な生活になってしまうのだ。