クルクル回る

高校の頃、突如躁になった(のだろうか?)

藤原基央が「happy」なんて柄にもないタイトルで新曲をぶちかまして、どうした藤原基央、一周回ったのかなどと軽くネタの様に思っていたが、絶望的な感情をきちんと直視して、誤魔化さずに生きようと気分を変えたのかもしれない、ということは26になった今ならよく分かる。

 

きっかけは会社の帰りにバイクで信号待ちをしていた瞬間、また例によって今日あった出と、そうすべきだった自己イメージとを照らし合わせて感情を持て余しかけていた時、突然全てがくだらないことのように思えてくる。

他人の感情に振り回されるのはもういやだ!いい加減にしてくれ!自分の感情や、欲望は、

 

そうすべきだったという自分が自分に抱いてる、それくらいできるよな、というイメージの高さと、様々な状況が関わりあってベストの返答ができなかった実際の行動とのギャップがうむ罪悪感や自分はこんなに大衆的で俗な人間なのかと気づいてしまう苦しみに覆い隠されてはいるが

 

探せばちゃんとあるだろ!?なぜこんなビクビクしながら生を生きなければならんのだ!

 

などと突然思ったことが発端だった。

これも一周回ったと言えるのだろうか?

まるでどれだけエラい奴でも意味なぞないのだと引き摺り下ろす松本人志の笑いの様である。

 

何か特定の価値観を持っていて、それによって苦しめられていて、しかし様々な経験を経、裏の裏までいっぱい考えた結果、それに心底意味がないと納得できたときに、客観的になれたと言えるのではないか?と、

一周回ることは「冷める」 「皮肉的になる」ということでもあるが、それはある価値観からの執着を離脱することができるということだ。

 

ある価値観に苦しめられていたとは言え、

それを知らなかった、知らずに行きている人も多いわけで、

一度そこを実態で感じて突破したという経験は、そういう「分かってない」有象無象の輩よりかは少しばかり、ましな人間であるのではなかろうか

 

bumpofchickenは最近タイアップ曲ばかりに傾倒し、すっかり牙が抜けてしまったようで寂しいが、

これもこの時代の彼らのあり方を模索しているんだろうと好意的に受け取る。

かつてはかつての時代状況でしか生まれ得なかった曲があるはずで、それがあの素晴らしい曲たちだったのだから。

 

曇りの日は起きた時から憂鬱で、次第に頭痛も襲ってくる。

昔はこれがあるからいけないんだ、これから逃れようとして躍起になっていたものだったが、

次第に僕も一周回って、これこそが自分のオリジナルなんだと受け入れる用意が整った(きがする)

憂鬱さを乗り越えようとインストールしたエネルギーやコンテンツの総量が、その負のエネルギーの総量を上回ったのだろうか?

 

まあなんにせよ、このねじくれ回ったオリジナルの感性は、とんだすごい武器になりそうで嬉しいのだった。

周りの人とも上手く関係が築けそうで、happyな最近。