真実の愛とは?

深夜、家へと車で送ってくれている制作さんが、年上の原画の人と車中で話しているのを後部座席で聞いていたが、全くと言っていいほど興味が持てない。

内容は、誰々がこない、何々がやばい、と言ったような話で、

よくある愚痴みたいにヒステリックに叫ぶような感じじゃなくて、ちゃんと心配をしていて、憂えていて、

うまくいくよう祈っているような話し方だったのだが、いつごろからかそのテの話題に全く心が動かなくなっていることに気づく。聞き飽きたのを通り越して、いい加減にしてほしいとイライラする。

 

こんな風に馬鹿っぽく真面目になんとかしなくちゃと捉えているから、どこにも解決法がないような気がしてハナっから机をひっくり返したくなるのかもしれないが、この業界がもともとそういうものだと言われればまあ、そうかもしれないが、

構造的欠陥なんてなくってきちんとやればうまく回るはずだし、そうでありたいなあと思っているのだが、こうまでいい噂を聞かないといい加減イライラしてくる。深夜の感情の起伏の激しさも相まってか、この会話のどこにも加わる隙間が無いなんて思いながら自宅までの距離を後部座席でぼけっと座っている。

 

そうしていると、いや、僕はそもそも、普段の会話でもこういうことがないだろうかと明後日の方向へと思考が敷衍していく。誰かが何か普通の世間話を話していて、それに対して何の感情も湧いてこないことがよくある。返答に困って、あからさまに興味の無い様を呈してしまう。その場に3人以上も人がいると、どんどん自分に興味の無い話題が膨らんでいき、とうとう僕は孤立してしまう。

そういう孤立感に特に敏感だったと車の中でそれに似た感情を味わう。

さすがに二十何年も生きてきてみれば、同じような状況の試行はなんども経験していて、その際に「正しいであろう」身の振り方もだんだんわかってくる。

 

帰って寝て、起きるともう日は沈んでいる。今までにも何回も明け方に帰って夕方に起きることはよくあったな、たいていそういう日の深夜はとっても気分が憂鬱になるんだ、と思いながらシャワーを浴びていると、案の定先ほどのことを思い出す。

 

起こったことは何のことはない。ただ車で送ってもらって、(優しいことに)何度か話しも振って貰って、帰り際車を出る際も快く挨拶押して別れただけだ。

これは自分と自分の頭の中だけで起こっているIFの世界の妄想なのです。

「真実の愛」を求めすぎてるんじゃないの?って思うんだよね。

過剰な理解や共感、創作物の中にしか存在しないような、全ての条件がピッタリ当てはまって初めて得られる人生そのものが変わるような深い愛

を、普通に横で暮らしている人とかにも当てはめて考えちゃうから、そんな気分になるんだよ。

もっと表層的なテキトーな会話をしようと思った次第。僕にはそれでちょうどバランスが取れると思いました。

 

かといって、さっきのスケジュールの話をしたくないのとかは別。

社内の人間と、外から入った人の間で、何か決定的なズレがあると思うんだよね。

この会社にはほとほと愛想が尽き果てるけど、情みたいなものはまだあって、

その過剰に肩入れしてしまう性格にも、問題はあると思うんだよね。

 

さて、どうしたらスケジュールの話ができるようになるのだろう?

したくないことを、しないといけないと思ってしまう性格が、そもそもまちがっているのだろうか?

なぜ自分は自分の感情がわからずに、べき論で行動していつも疲れ果ててしまうのだろうか?

何だか様々な問題が複雑に絡み合って、今の性格を形成しているように感じる。

俺は本当にスケジュールの話をしたいのだろうか?

いや、たぶんそれも正しい身の振り方ってことで、

 

帰りの車の中の30分の間くらい、テキトーに会話を保たせておく技ってのが、多分正解なんだろうか

今のところの。

 

「真実の愛」というキーワード、何か形にならずに消えてしまいそうな思考に、言葉を与えることで考えが深まりやすいのだった。