信じもしないが判断も下されない段階

 コージィ城倉という人のチェイサーという漫画が面白い。

試しに2巻だけgeoで借りてみて、面白かったのでそのまま深夜のゲオに戻り、隣の喫茶店で最新の4巻まで読んでしまう始末。(これは快楽に引っ張られていると言えるのだろうか?自制しようと思うのだけれど、こういう人の生活から外れたオタク的な興味はどこまでが肯定されるべきなのだろうか?)

なんてったって絵がいい。出てくる人物は男臭い主人公に漫画編集者達しかいないのだが、丸っこく柔らかそうな、どことなく手塚治虫に似ているタッチで描かれていて、ごくたま〜に出てくる女の子もちゃんと可愛い。背景と人物に同じくらいの興味を払って描かれていて、この人の描く世界は安定して、信用できる絵の世界だと幸せになる。

 1話を読んで、手塚治虫の野次馬的な挿話に興味を惹かれ、この感じが全話続けばいいのになと思っていたらこの漫画はそもそもそういう漫画だったし、海徳光市氏は実在しないらしい(笑 昔の漫画業界事情はこうだったのかという面白みもあるし、主人公が手塚治虫に嫉妬し口では認めないと言いながら、その真似を続けるのをやめることができない愚かしさはどことなくアオイホノオに通ずるものがある。

 問題はその愚かしさにあるのだ。物心ついた頃からこの欲望にずっと悩まされ続けているのだし、だからこそ今、まさに、この漫画を読むのがこんなに面白いんだろう。自分の問題意識とつながっているからだ。

 自分にとっての創作物とはその問題意識を持った登場人物に共感を得ながら、それでもコマの中で客観視し、その問題意識そのものを客観的に捉えられるようにするためのもので、だからこそ、大衆の暇をつぶすために作られたキャッチーで下品な物語類や、売れた後に出てくる似たような後追い企画ものに苦々しい、受け入れられなさを感じるのだ。「チェイサー」での注目すべき点はその手塚治虫氏の「創作に取り憑かれた狂人」ぶりであり、「だれもやったことのない、前人未到のことがしたい」という底の見えない欲望の恐ろしさである。ここまで何かを作り出したいと思う狂気(情熱とかやる気とか、あえて良い風には書かない。)とは何なのだろう?だれが得をするのだろう?しかし当の手塚治虫はその狂気に犯され続けながら驚異的な物量の仕事をこなしてゆき、しかし世間の評判は移ろい易く、アトムの視聴率は最終回を目前に右肩下がりになり、作風が暗いなどと揶揄されるようになる。手塚治虫の芸術性が過度なリテイクを乱発したり、漫画との掛け持ちでアトムの動画までやっているせいで遅刻して、現場のスタッフに怒られたりしている。本当に、誰が得をするのだろう?

仕事量に比例して、幸福度が増えていくのならまだしも、何かを作りたい、作らなきゃ死んでしまうという個人のエゴは、どこまでいっても個人のそれである。アトムのグッズが増えて、子供達を笑顔にさせた、明治製菓の利益が上がった、リミテッドアニメーションを世界で初めて開発した。そんなことと、実生活の中での幸福度は、どうすれば釣り合いが取れるのだろう?どこまで新しいことをやり遂げたって、その結果に担保されない人間関係を築かなければ、どこまで行ったって孤独のままである。

 

 夜に寝ないと理性が弱くなるために、感情的になってしまう自分なのだけれど、

Loが終わらなくって夜中に残って一人で描いていた時に、とんでもない孤独感を感じたことがあった。僕はあの感覚が怖いです。なにか驚異的な達成と引き換えになったとしても、全く釣り合いが取れるように思えません。だから、なにか創作をする際にも、となりに誰かがいてくれなければできないように僕の脳みそはできていて、いままでは、かといって、一人になりたかったり、なにか大きなことを達成しようとしたいという「発作」(作中では、「悪いクセ」)を起こしたりしていたけれど、チェイサーの手塚治虫のあり方を見ていて、そういうのって、全てバランスなんだなと思うようになった。

 これはもしかすると、今がその残って描いてたLoを上げきって、一仕事終わった今だから言えることなのかもしれないし、またしばらくすると孤独の痛みを忘れて、なにか

○○○○ここに在り!みたいなことをやりたくなるのかもしれないけれど(いや、やりたくなるに決まってる!)そういうのも全てバランスなのだろう。安定した人間関係と、その上に立脚した安定した質と、スケジュールの仕事で、アニメ業界を回したいと思うし、みんなそういう理想を掲げているのだけれど、実践している人ってあの人くらいしか知らないなあ。だから僕はもっとあの人に話を聞くべきなのだし、あの人を師匠として付き人となるしかないんだろう。いや、そうなりたいと思う。ぜひ付き人としてこき使ってください!!

 

誰かと考えを共有できない孤独感と、その孤独感からくる絶望感と、その裏返しとなる慢性的な承認欲求の強さに、多分僕はこれまでの生活を振り回され続けてきた。

今までは別に...って感じで、創作物に浸る快楽は、それに釣り合いが取れるくらいに甘くって安らかなものだった。要するに変わるきっかけがこなかっただけなのだろうけど

あの人に出会ってしまったら、多分その先にもっとさあ、「良い」感じになると思うんだよね、生活も考え方の深度も、隣人も感情的な安定さも。

全体的に何となく「良い」感じにね。