ガラパゴスゾウガメになりたい

 寝覚めが悪く、11時間は寝てしまう。昨日会社に泊まって3時間しか寝てないせいかもしれない。歩いている時も朦朧としていて、いつになったら覚醒するんだろうと思いながら会社へ行く。

本質的に寝覚めが悪いんだ、と、起きてすぐ机に向かっていた自分に教えてやりたくなる。やはり誰かのそばで活動するのがいいんだし、そうすることで頭も完全に目覚め始める。

 帰ってきて近所を30分ほどランニングした。代謝を活性化させよう、と思ったのだが、きっかけは先輩と背景さんとの会話。「運動を続けることができる」生活という、今までは見上げるだけでしかなかった高いハードルを「維持しよう」とはじめて思えただけでも大きな進歩である。

 こんなところで絵を描いていて、自分は隣の人に迷惑をかけているんじゃないだろうか?ウルサくしていないだろうか?こんな下手くそな絵で1話やってんなとか思ってんじゃないだろうか?などという唐突な不安に襲われて、今日は仕事が捗らない。やべー感情を抱えているという客観性も確かに感じていて、論理的に考えて見ても皆そんな激しいことを思っているはずがないのだけれど、感情の問題は論理では解決されないこともまた知っている。

 結局それは自分が思っていることなのだ。

 そんなことを思いつつも、周りの人は応援してくれたり、状況を報告してくれたり、なんか画材を持ってきてくれたりして優しい。まあ確かに、他人の感情のどうこうなんてどれだけ突き詰めてもあくまでこう思っているだろう、こうに違いないという推測の域を出なくて、どう思っていますか?なんて聞いてもその正当性も証明できなくて、

証明することが不可能な肯定50%否定50%なのなら、否定でも肯定でもどちらでも同じなので、否定に固執する必要なぞなくなってくる。(せいぜいが否定だったときの感情の急落のための予防線にしかならないが、それは感情の急激な起伏をも受け入れることが成長なのだという最近自分で導き出したオリジナルのモットーによって論破できる)

最近では周りからの優しさを無下にしてまで、否定側に拘り続けるメリットを何も感じなくなってきているし、

スタッフの間の親密さが作品のクオリティに影響するなら、その優しさを稀有なものとして大事に扱っていかねばと自戒しました。

 

 「同期、仲悪くなる説」というのを前々から色々な人に言っているのを思い出して、やはりライバルなんて必要ないのかしらとか思う。絵なんて結局のところ感動をどこまで突き詰められるかだし、それは他人と競い合うものではない。役職のシステム、原画のシステム的に、効率的に求められている部分さえ抑えてれば、最速で上のポジションにつけるけれど、それは果たして「絵の良さ」とどうつながってくるのかはわからない。

問題は絵描きが、金を稼ぐことにも、出世にも特に興味がないところなのだ。

(そしてそれはある種の美学を生み出しているし。)

今いる会社に送ったポートフォリオに入れた、母親のパソコンのデスクトップ画面だった亀の画像、windows vistaに初めから入っているサンプルピクチャの亀の画像の絵を思い出す。アニメーターになると言い出してから渋面を作ってばかりいた父親が珍しく褒めてくれたあの絵のことを思い出して、そのことが少なからず今の自分のモチベーションになっていることに気づく。ガラパゴスゾウガメみたいに100年でも200年でも、天敵のいない世界で自由に暮らしていたら、

 きっと独自の形態が形作られて、たくさん人が集まってくるだろう。

 いや別に、その画像はガラパゴスゾウガメじゃ無いんだけどさぁ。