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なんだか多幸感に溢れたような日記を書いているが、とりたててそんなに幸福でもない。

先々週と、先週は特に楽しい出来事が続いただけだ。目を閉じると喪失感がやってきて、微睡んで、眠りに落ちてしまう。生活が堕落して、思い描いた通りの理想的な生活を送り続けることが困難になってしまう。

しかし、これこそがなんらかの創作に対する根源的なモチベーションになっている気がしてならない。本当に無駄足を踏んでいるのだとすれば、俺は即刻、この無駄な時間を切り捨てて、効率的に、自らの理想通りの生活へと矯正するのだろう。

しかし考えて見ても、そうしなければならないような気はしない。このことについての考えとは、全くもって曖昧で論理性など皆無だが、なんとなく、俺の人生はこの直感に従って、今まで生きてきたような気がするのだ。だから直感にしたがうことに迷いはない。

 

新豊洲から、豊洲へ向かって歩いていた。午後9時過ぎ。遠景に光るビル群と、誰もいないゴーストタウンめいたモデルハウス、それらが織りなす一種退廃的な雰囲気を感じながら、俺は全く普段の生活と切り離された、異質な感覚を味わう。

この普段の生活というのが意外と強大で、何かご大層な理想やお題目を思いつき、それの通りに行動すると誓ったとして、2日、3日経つと、もうすでに普段の生活の、そのルーチン化された感受性や手順に取り込まれて、霧が晴れるように冴え渡った、あの感覚を忘れてしまう。そして人間関係で溜め込んだストレスを癒すために、インターネットやテレビに転がっている、それを発散させることに特化した様に作られたコンテンツを貪り食い、明日へのコンディションを虚ろに整えるのだろうと思った。

 

俺は様々なものを見る必要があるんだと思う。なにかでかい仕事をやりきった後、2週間ほどまとまって休みをもらい、バイクを買って、遠くへ旅に出たいと思う。

2日間、また例の喪失感を味わって、暗闇の中でベッドに横たわってぶるぶる震えながら、なぜ俺はものを作らないんだろうと嘆いた。エゴだとか、公的だとかそう言ったことが全てどうでもよくなる感覚を想像して見る。2者間の対立から止揚された、3つ目の答えについて抽象的に考えを巡らす。最近グリーンマイルの1巻を読み終わり、またBOOK OFFへ行って2巻を購入する。せっかく買ったそれを読まずに電車の中でも、目を閉じながらずっと考える。

 

何かに自由にならなければならないと思う。先行世代のおためごかしや嘆き事に、一々取りざたされる必要はない世界を夢想する。自分の意思というものが存在するのかということを考える。

 

本当に何もする気が起こらない。別にこれは不安がったり、恐れたりするものじゃなく、ただそういう「時期」なんだと思う。

 

明日もまたいつもの様に、俺は社会を動かすものの一部と化して、先輩に気を使ったり、後輩に気を使ったりしながら過ごすことになるだろう。

そこに幸せはあるのだろうか?