快楽の棺

ま、結構いい国なんじゃねーかと思うけどね日本って。

なぞ、気分で抑圧や背徳感を肯定してみる。今そんな気分。

数々の抑圧的な部分はあるにせよ、それによってあんな素晴らしいオタク文化が作られたのかと思うとね。

憂鬱な気分はなりを潜めている。

今の俺は幸福なのだ。

 

先日、後輩と色々喋って、自分の技術を披露する機会があり、ずーっと、結構長い間

教えられる側だった僕の自分に対するイメイジが一変して、今のこんな状況を生み出しているのかもわからん。あそこまで到達せねばならないという目的地が抑圧が承認された快楽によって打ち消され、ふわふわとした夢遊病的な世界を歩いている気分である。

もしくはリア充たちは、いつもこんな景色を見ているのだろうか?

俺は本当に快楽に忠実だなあ。

 

 

「快楽に忠実ではいけない」という自分の中にある強すぎる倫理観は、不幸に陥った時のみ有効に発揮するものなのであるならば(目先の快楽に引きずられて、状況はどんどんダメになっていくからだ。状況を好転させるには、自分が今一番嫌だと思っていることをやる必要があるからである。)今の俺がこの快楽を享受してはならないとは言えない。

しかし、一方でそれは単に短期的なものに過ぎなくて、結局俺の本質自体であるネガティブさと自意識が欲しがる愛情とでまたすぐに俺は憂鬱になるのだから、それ自体が俺の心の戻ってくる本質なのだから、今日だけにしとけよって話なのだ。

 

願うべきは、幸せは永遠には続かないんだという認識で、それは単に依存しているに過ぎないのだ。

仮に将来、幸せな家庭を築けたとしても、そこが人生の最終目的地だと言わんばかりに依存して、迫り来る見えない崩壊へ導く脅威に気づかないようでは失格であるのだから。

何かにつけて、脅威はやってくる。しかしそれは相対的なもので、重要なのはなんというか、過去の不幸に結び付けられた、特定の状況に対する苦手意識のようなもの。

正にも負にも自由に振れる、可塑性のある心を作ることだ。

そしてそれは、健全な創作のためにある。