何にも無いよ。

今日も楽しい1日でした。

 

交感神経が活発に活動していて、なかなか頭が絵を描く頭にならない。

絵を描く気にもなれない。

描きたいのだが、描いた絵を見てああ俺ってやっぱ才能ねーなとか、そっちにばかり気がいってしまってノレない。

でもこの状態で良かったんじゃないの?とか、この状態を手に入れるためにこの半年間さんざ苦労させられてきたんじゃないのかとかも思う。

そういえば、小説も読まなくなってしまったね。没頭できてたあの頃の頃に戻りたいとも思う。

 

何が正しくて何が間違ってるのか。

ニコニコ笑って他人とうまく話せて、まーいろいろとああすれば良かったなってのはあるけれども、それでもなんとかやっていけてて、輪になって氷プールに浸かってた金麦

なんぞを煽りながらワイワイアニメの話とか、絵コンテが上がらないだの、昔やらかして監督が怒ってるからあのタイトルやりたくないだの、そーいう話を聞きながらあれ俺なんでこんなところにいるんだろうと思う。この輪の中に参加していることが信じられなくなる。男だらけの輪の外で一人だけ女子の後輩があきらかに手持ち無沙汰にしているのを目の端で捉えてああ何か話しかけてやんなくちゃなと思う。それでも忙しすぎて映画館に行けてない先輩の未見の君の名はdisが面白かったり、ちゃっかり原画の描き方を教わってたりする。これが幸福ってことなんだ。普通ってことでもあるけど。

今週のリアルアカウントを読んで、ああなんかリア充と非リア充の対立ってやっぱりあってそれは結構深刻なんだって思ったんだ。感受性スペクトラム?感受性の高いやつは必ず思春期の時点で他人の影響で自我がひどく傷つく。その経験が、日常的な人間関係を送る上での恒常的な不満の原因になる。「お前ら好き勝手話してゲラゲラ笑ってるけど、俺は別に何にも面白くねーんだよ」なぜならまた傷つけられる「かもしれない」可能性があるからな。でも日常的なレベルでの共感は必要なので一緒に笑う。そうしてなんだか疎外されてるような不思議な気持ちになる。

これが「白ける」ということで、まあ「スノッブ」とも言い換えれて、まあなんだかガチになれない。心の底から笑うことができないんだよな、お前ら友達のもたらすコンテンツではな。

で、その「白けた自分」をも受け入れてくれる女性に「救われる」ことを期待してんじゃないかな?ユウマが。そして俺も。女性に対してその種の共感を求めてる。

仲間と一緒にいる自分、を外から見ているもう一人の自分に気づくやつは非リア充になる。気づかないやつはリア充になる。そして両者は交わらない。リア充は自分の感受性で世界が成り立っていると信じて疑わないからそれにノレないやつを輪の中から排斥したがる(っつーか見ないふりして締め出して最初からなかったことにするっつーか)ので、非リア充はガチになれないという理由だけで格差を提示されておわり。ワンピースなんかもそーだよね...仲間は最高!って信じれないやつも、麦わら海賊団に入れろよな....そういう奴らだって生は続いてなんとかやってくしかないんだからさ...

(あ、なんだか最近気づいたよ。文学ってこの溢れた奴らを救うためにあるんだよね。コンビニ人間とかもさ、なんで文学って負け組のことばっかかくんだろってずっと疑問だったんだけど、選評の時に村上龍が言ってたじゃん、溢れた奴らを可視化するとかなんとか...)

これがなんだか、松本人志の笑いのようでもあって、なんだかシニカルさとかスノッブとか、皮肉とかって理不尽な中で生き残るための「武器」であるってズートピアで監督が言ってたように思うんだけど。まあガチで生きるのが一番精神的にいいよなって話でありまして、俺が好きな漫画のキャラクターはその二面性が現れてるキャラクターなんだなってことに気づいて、リア垢のユウマ、ベクターボールのあいつ、ユーフォニアムの久美子、たまこまーけっとの常盤みどりとか、

なぜだか開き直ることでそれは強さにも変わる気がする。往々にしてそれは自分の中での受け止め方の問題だからだ。「そこに気づいていて、共感できませんが、なにか?」

と、続けて行けばそれが平気な自分を他者が認識して、自分への接し方が楽な方へ少しだけ変わる。

 

ああ何だか、こんな事が言いたいんじゃあ無いんだけどな...

なんかうまく説明できないんだよ。今まで俺が目指していた問題の解決を達成して、急にそれが取るに足らないものだったとわかったから、何だか茫漠としてるんだよ、目の前が。

それがモチベーションを絵に向かわせることを阻んでいる気がしていて、鬱陶しい。

結局絵さえ描ければ解決するんだよ。この問題は。

 

あーなんか無駄なことしてる気がしてきた。頭の中も整理されたしね、ちょっと絵なんて描いてみるか...

 

 

 あ、あとアイアムアヒーロー伊藤潤二のトリビュート読んで、自分の日常を描くようなエッセイ漫画は書くまいと思った。なんだろうあの違和感。伊藤潤二はホラー「屋」なんだよな...藤子F不二雄がSF屋なのと同じように...逆に今までハードにそのジャンルをなぞっていたんだなとなんだか凄さを実感した。「頭を空っぽにして楽しんでもらう」作画技術見本市とかさー、やめろよな。サンデーの新連載も話ひろがんのか?

題材があまりに日常的すぎやしない?絵はいいのに、絵はとてもいいのに...

やめろよな、そろそろ。