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タバコ

会社の近くのセブンイレブンでタバコを注文すると、番号で答えないとわからないと言われたのでレジを離れてタバコの置いてある隣のレジの前まで行き番号を確認して伝えた。

店員さんとともに元のレジへと戻ってくると、おばあさんが小銭をレジの上に出してい待っている、あまり血の巡りのよろしくない女の店員さんは何かを察したのだろう「順番にお並びください」と軽く注意を促した。

 

いや、わかるぞ。

 

当然婆さんは俺がタバコの番号を確認しに行ってるだけだってのはわかっていて「並んでましたけどねぇ」と文句を言う。俺もそれをわかっている。婆さんはその状況で、その女の店員さんと、(もしかすると僕と)に、瞬間的な敵意を感じている。

この種の苛立ちだよな、問題なのは。日常的な礼儀正しさの反動、プラス10とか15が正常値だから、マイナス2とかになると、それはマイナス2ではなくってマイナス17とか18とかになるその感じは「不快感」とネットでは言い表されていて、言いたいことを、受け手側の「察する能力」に甘えることができない時の独特の伝わらないイライラっていうのは結構感情の原始的なところで発生しているような気がする。

 

 

感覚的に不穏な感じを受け取った俺は妙な釈明に出て「いやあのタバコを取りに行ってまして」「わかってるわよ、小銭出して待ってるだけだから」「あ、いえ、大丈夫です!」小銭を出してるだけだってのはわかってる。

会社へ戻る道すがら、なぜあの奇妙な釈明が必要だと思ったのか考える羽目になった。(過剰に反応した情動の任せるままに)あの婆さんに全てを言葉で説明してみるといかにも過剰で「その場の空気」が変な感じになるし、それに何より、またいつものように「過剰」に他人に親切にしようとしてしまう自分に気づいて戦慄する。

 

ほらここに、さっきのあの婆さんの感じていた不快感の反対側に、このような親切心はある。

他人に親切に親切にしようとしていつしかそれが当たり前になってしまうと、陰鬱な気分の時の他人への反応がおざなりになってしまうことで、親切にしようとしていた時の自分(そうすべきだと思っている自分)との釣り合いが取れなくなって、容易にバランスを崩してしまう。

 

だから最近はこの種の親切心には慎重になるんだ。

 

 

 

会社に着くと、重くてボロい裏口玄関のところでダンボールに包まれた紙を持ってきている業者がいた。裏口の扉の方は段差があって、カートじゃ容易に通り抜けられない。

スッと閉じかけの扉に手を伸ばし、固定する。

業者のおじさんは、ああすみませんね何て言いながら何箱もあるダンボールを重そうに抱えて、エレヴェータの前まで運んでいく。その間、僕はずっと扉を持っていてやる。

 

 

なんだか罠にかけられているのか?

 

 

 

他人の特別になりたい、そうでないと不安で不安で仕方ない。なんて思ってたことがあったっけ。当時唯一いた心から通じ合える友人にそのことを話すと、そいつも同じことを思ってたっけ。(だから当時は軽く共依存していたんだろうね。)

お互い「特別だね」なんて、ざーとらしく確かめるよーに口に出してたね。

 

結局それは、親切にすべきだという矜持から行動してるんじゃなくて、相手の感謝を担保にとっているだけなんだろうね。相手に貸しを作ることでぼくは安心して関係を送ることができたんだね。

 

 

しかしそういう安心感は長くは続かない。

だって、人と人との関係ってずっと良好なわけがないだろう?

1日のうちに何度だって印象が変わることもある。瞬間的な印象はね。

 

 

 

 

 7月27日水曜日

納品前のタイトルが終わらない。