察しろよお前ら
7月15日金曜日
日記を書く前に時計を見ようとケータイを手に取ると、最近疎遠にしている友人からのLINEの着信がある。
もしもこのあと続けて「おまえふざけんな連絡しろよ」類の文章の一つやふたつでもくっついてくると(かつて幾度もあったように)また容易に僕の心は揺れるだろう。
何か「当然すべきこと」をこの友人に対して「怠った」という認識は、自己イメージと現実の感覚的不一致を起こさせ容易に分断させ(かつて幾度もあったように)またしばらく、他人に対してうまく心が開けなくなるだろう。
いやいや、元々はお前がすべてのことから離れようとしてとった行動の結果なんじゃないのか?
人間関係を送る上で必然的につきまとうこの種の「責任」とは一体なんだろう?
これによって「必要以上に」いいか?「必要以上に」だ、僕は自分で自分を苦しめているような気がしてならない。
今日も何もなかったしチーフも会議でいなかったので早く上がって、仕事終わりに帰ってきたヒトラーを見に行った。
早く上がってと言っても社会人的定時はとっくに過ぎている。
上述した、いろいろな責任から離れる方法がわからなかったのだ。だからいろいろ試してみた。結果的に、一人で映画を見に行くという行為はなかなか有効である。
意識的にOFFにできないのだった。
責任が増えてゆくが、自由を謳歌するために負わなければならないものならばなんだって負ってやる。
なーんて恰好のいいことを6月28日に書いているのだが、正直なところこんなにキッツいことを自分に課してたの俺。
しかし俺はこれを守らなければならないのだ。
帰りの電車の中で、この変な問題についていろいろと考える。
(こういう時俺の関心は周囲に向かずただただ心の中を浮遊していて、そのためにDVDを返しに行こうと駅に着いた時点でDVDを持ってきていないことがわかったり、駐輪所の番号を覚えて精算機へ向かうわずか10数歩の間にその番号を忘れたり、しばし現実世界で信じられない認知機能の低下を併発する。そのため友人や知人がたまたまその電車に乗り合わせ出会ったりなんかすると俺は俺一人でいる時の自分の客観的認識とその人といる時のそれとのギャップにまたひどく悩まされることになろうだろう。これはこの日記の目的である「日々の生活を意識的にする」ことで改善が見られると考えているが、最終的な到達点ってどこなんだろう?あ、健全な創作のためか。)
結論から申し上げますと、僕の心の中には2つの価値観の基準点が存在していて
1:無名であること
2:有能であること
この2つが満たされていないと、僕は常に憂鬱を感じたり不満を感じたりするらしいのです。逆に申し上げればこれまで悩んできた全ての(言い過ぎか?)不満や憂鬱が、この満たされなさから発せられていたのだ。
よく有名になりたくない、誰に勝利したくないといって悩むのは、要するに私的価値観1と一般的な価値観との相違により疎外感を感じている状態で、誰かに自分の考え方と真逆のことを言われたりしたんだろう。
そして無能であることは容易に周囲からの承認や自身の社会的ポジションの喪失へと
繋がり極めてフェイタルなダメージを精神に与える。
それもこれも、他人との関係に自己の存在基盤を置くことが困難なせいだ。
7月16日、ここまで書いてから書き続けることが困難になってベッドに倒れ伏し、13時間も眠ってから会社に。メーンタイトルのラッシュへ向かう。
しかしだ、ここにきて思うのだ。
昨日のトライアンドエラーを繰り返して見るところ、どうやら自分にたりていないのは他人との関係の中に自分自身を確保する抵抗力なのではないかという気がしてくる。
はいはい、そうですねそうですね、うはーわかります!天分である情動の過剰動作を元にする心からのオーバーなリアクションを繰り返して相手の話に聞き入るのはわりと面白いし、そこそこ好ましい反応も返ってくる。しかし、どうもその話し相手との関係の中に、少々自分自身を売り渡しすぎやしていないかい?
相手の承認欲求を満たすのに夢中になって、自分の承認欲求が悲鳴をあげて、自分のポジショニングを自分で確認するために、お前は急に疎遠になったりして、過去そうやって何人の知人と縁が切れたと思ってるんだ?
相手にしてみりゃ迷惑な話だよな、初対面での人柄の良さは一体どうした?って。会うたび会うたび精神の一貫性を保てないで+かーのどちらかに振り切ったテンションで接してくる奴なんて俺からしてみてもヤバいやつって感じ。
コミュニケーションの「技術」
何故みんなこんなに難しいことが生まれつきできるんだ?
俺がこんな死ぬほど苦労してようやく身につくほどの技術を、どうして?
なんてまた逆説的なことを言って疎外感を他人からの戸惑った視線で倒錯的に満たそうとしてみる。
(理解されてこなかった経験からそういう自己認識しか持たないやつは、おまえが理解できないと相手に言わせることが逆説的に理解されたことになるっていうめだかボックスの球磨川禊的なやつ)
なんか最近ここ5、6年内側へ向いていたメンタリティが、急に周囲の環境との折り合いのつけ方に悩んでいた自意識が芽生えた中学生の頃に戻ったような気がするな。
そしてあの時うまくできなかったこの種のことも、回り道をして、いろいろな武器を拾ってきたお陰で、なんとかうまくやり過ごせる気がする。
人間関係を円滑にするための小手先の技術に悩む奴なんて、どうしようもなくくだらない矮小な世界観しか持っていないのだ。
大切なのはその奥にあり、もっと根深い。
自分自身が、自由を感じられるかどうかなのだ。
実にアメリカ的、俺はどちらかというと、こういう考え方が嫌いなんじゃなかったけ?
だけど、とても大きな世界へ羽ばたくためのモチヴェーションなんてものは大抵
たかが6畳程度の暗くて小さな自分の部屋で、この衝動をどう扱っていいかわからないまま悶々としていた時に思い描いていた「世界がこうだったらいいのになあ」っていうあこがれと期待が全ての始まりなんじゃないだろうか。
ここまで考えたので(もう言語化できるはず)冒頭で感じていた俺を戸惑わせ不安にさせる人間関係におけるなんらかの「責任」とは一体なんなのか、中学生の頃から未解決のまま保留にしていたこの問題の生じる原因を、何個か書き出してみよう。
・自分が相手に依存している分だけ、自分も相手に対しなんらかの力を割いてやらなければならない、という責任感。(そしてそれはしばしば過剰)
・力を割いてやるのを怠ることで、満たされてないと感じてしまった相手に疎外されるのではないかという不安感
・もしくは周囲のことを意識的に把握していないせいで実際に生じている人間関係的責任や社会的責任をおれが認識していないのではないかという不安感
松本人志は学生時代に、別に喧嘩が強かったわけではないのに不良らから強いと思われて、安全なポジションを確保できていたらしい。
笑いの才能による、人間関係をうまくやりくりする力が強かったんだろうなと今になって思う。
そして、そういう生存や生活に極めて密接に関係する「芸」の力の強さこそ、全ての創作における本質ではないかと思ったりもする。
調整、調整か........
なんというか、明るい話題はないかなあ
まーあれよ
長い長い日記を今日も書いてしまったけどよ
結局俺の出した結論は、健全な創作を疎外する人間関係での責任はバッサバッサと切り捨てていーんだってことよ。
誰にだって守りたいものは自分の中にあるだろう?
そーいうこと、おわり。