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仕事終わった

エゴって一体なんだろう?とよく思う。

今日は久々に友人とスカイプして楽しかった。

宮崎駿も、所詮はエゴで映画を作っていたと語ったのだ。

上流階級にも愚鈍な思考しか出来ない奴もいるし、貧民街にも高貴な意志で生きている奴もいるのだ。

 

エゴだ。何か、どっか満たされていないと感じるのだ。

滞りなく業務を遂行できるはずなんだ。しかし時にエゴの欠乏感がその邪魔をして、わざと脇道にそれさせたり、むしろ業務の達成って無価値なんじゃないだろうか?と思わせたりするのだ。

エゴって一体なんだろう?

 

この手の話になると途端に頭が働かなくなるが、成功体験がないために理性で道筋を矯正して、新たな道を開拓しなくてはいけないんでないだろうか。

 

情緒不安定に過ぎるんだろうな、とよく思う。

僕は何かを抑圧して生きているのだと思う。

それから自由になるために、むしろ絵を描くことそのものもその目的に達するための手段のようにも思う。

 

会社にいる時は、何かの価値観のスイッチが切り替わっているように思う。

家で絵を描く瞬間も、いいやむしろ、もっと言えば創作に対する姿勢全般にも、そういう価値観で挑めないかと思ったりもする。

僕は家で絵を描くときのそれから脱出したいのだ。

それには、何かとても大きな犠牲を払ってしまうような気がして仕方がない。

考えてない、そんな予感がするだけだ。

思春期からの脱出?子供から大人への成長?よく言われるそれらの言葉は、あまりに観念的にすぎ、意識せずとも行われる価値観の転倒「個人のエゴイズム<社会人としての責任」を言い表しているのかしらん。

しかし、今まで僕は個人のエゴを満足させるために絵を描いてきたんじゃないのかともおもうのだ。

しかし、それも間違っていることを僕は知っている。

限界に来てたじゃないか思春期が、andymoriだったじゃないか。

自分のエゴを手放した時、なにかぽっかりと大きな空洞が開いてしまったような漠然と不安があって、じゃあ何をぜった的なものとして生きていけばいいのだ?てなっちゃう。

それをこれから見つけ出すんじゃないのか?過渡期にあれこれ考えなくてもいいんじゃあないか?

やるべきことは心の中にちゃんとあるんだろう?

あの満たされなさから脱出する。

 

成長における自我と他者アクセプトの関係、 をgoogleで検索検索ゥ!

 

こんな風に散文的にしか書けないのもまた、敏感あ心を傷つけまいとわざと深く考えることを心が拒否しているからにすぎない。

でも達成までの手順はわかっている。