響け

 ユーフォニアム劇場版を見に行った、見たいと思っていたのが時間が取れたので見れて嬉しい。

 総集編なぞついぞや見る機会はないだろうと、厨二病あの花まどマギも敬遠していたのだが、ユーフォニアムは特に思い入れが強いし、ちょうど忘れかけてた頃だったので丁度いいと思い行ってみたのだが、見終わってみると、やはり総集編だけあってそれぞれのドラマのシークエンスに長い時間が取れないせいか全体的なテンポに不満。外せないエピソード群からの逆算の結果がいまの形なのだろうとは思うが、劇場版の描き方だと久美子にとって秀一は完全なアウト・オブ・眼中だし、久美子が吹けなかったパートを練習している様にじっくり時間をかけないから、橋の上での屈指の名シーンがあまりに軽く映るし、例の6話あがた祭りのくだりも、それまでの麗奈と久美子の微妙な関係の積み重ねがカットされていたので唐突に映る。なによりあすか先輩、夏希先輩、中世古先輩などのサブキャラのエピソードがカットされていて歯ぎしり。あそこもそれぞれいいドラマだったのになぁ。不満点はおおむね尺が足りない!に尽きる。(だからあまり好きじゃないんだよ総集編って)

 しかし、見返しながらやっぱりTV放送版のアニメはよくできていたなあというのを改めて感じた。特筆すべきは麗奈という存在。エゴを表明しながら生きる人間の苦難は非常に厄介で、何かを極めたい、うまくなりたいと思う気持ちはエゴイスティックな自己実現にほかならないが、それと対立するのが集団の中で生きているという環境で、合奏も本質的には集団作業だ。当然、周囲の安定化のキャパシティを超えた自己表現は集団内に混乱を生むわけで、跳ね返ってくる周囲の憎しみ、怒りを、苦悩しながらもを一身に背負って生きる決意をしている麗奈はとても格好いい。そしてそんな彼女が自らの矜持の通り生きるために必要な久美子という存在。自分は誰かがあのように特別になりたいと行動している時、その苦悩を分かち合ってあげられるだろうか?それだけ周囲に立ち回ってやれるだろうかと真剣に悩む。

 あと麗奈と久美子を百合百合言ってる奴ら全員殺す。たまこまーけっとの時から進歩してねーのか!お前らは!

  劇場を出て歩いている時、男性でこの話をやっても意味がないのじゃないか、とも思った。男ってここまで繊細に考えないし、考えたとしても女の方がいかにもソレっぽい、という、アニメにおけるリアリティ構築の問題なのじゃないか。

なんにせよ、滝昇先生の至高の名言「・・・なんですか、これ?」がカットされてなくておおむね満足。

 

帰って魔女の宅急便を借りてきて見るも、さすがに3周目のせいなのかあまりこの話に興味を持てなくなっていることに気づく、というか本来レイアウトを観察するために借りてきたのだから、草原でなびく草の1本1本とか、この画面を成立させるためのセルワークとかいう細部なんかが気になって仕方がない。というかそもそもこいつの将来なんてどうでもいいんじゃあないか?などと考えてしまい、要は俺はこの話を男の主人公でやりたいのだと思い当たる。それも19 世紀だからのヨーロッパで。早いとこ異国迷路のクロワーゼ、を全部見なきゃなあ、1話見て辟易してやめたんだけど、萌えアニメ見て辟易するのは楽しみかた間違ってんだと思うよ。もっと細部を見てれば面白いところはたくさん出てくるはずだから。

 そういえばこれも女性の自己実現についての話だった。内田樹先生は宮崎駿がアニメを書くという無意識にできたはずの「才能」を、意識的に使わなくてはならなくなったときの困難を、キキの「魔法」に転化させてお話を書いたと仰っていたが、おおむねこの作品は「若い女性が都会へ出て最初はイメージと違って様々な苦労に出会うけどその場所で強く生きていく話」と認識されている。

これでまた 女性の自己実現の話に戻るのか?何日か前と同じ主題に?こいつが幸せになろうと不幸になろうとどうでもいい、現実はもっと切迫したものでなければならないんだ。いくら13とはいえオリバーツイストなんて孤児で泥棒だったんだぞ!お前の人生どうとでもなるだろう!なんでアニメにこんなに真剣になってんだ?でもお前はユーフォニアムもガチだったじゃないか。

 

まあ、どうでもいい!ただ一つだけ言えるのは僕はまだ変化の途中で、男主人公版魔女の宅急便feat オリヴァ・ーツイストをつくるべく明日もインプットにいそしまなければならないってことだ。俺の魂に深く刻み込まれた問題なんだから。いったい俺は前世でどんな悪行を犯してしまったんだ?とりあえず、あまり湯水のように金を使うのは控えよう。こないだの同人誌買いまくった時みたいにさ!2冊で9000払うところだったんだぞ!