まごころを君に

アルジャーノンに花束を」を読んだ。

大学時代に一度読んだのだが、こういう物語を改めて読む必要性が感じられる。精読である。

人との付き合い方を学び始めて、明らかに以前よりも情景が頭に浮かびや浮く、話の関係性が理解しやすくなり、その結果 かつて感じたのイメージや、内容以上の深みを感じ取ることができるようになったと思う。その上、この本は最近の私の心に留まり続ける問題について非常に明快にアタッチしてくれているため、読んでいる間じゅう新たな想念が湧いてきて仕方なかった。またいつかこの本はもう一度読むことになるだろう、そしてその時は今よりさらに深い洞察が可能になっているはずだ。

 娯楽小説と文学小説の違いを友人に話したことがあったことを思い出させるが、思うに、こういった類の話はストーリーの骨子が実人生を送る上で直面し考える重大な問題に言及されているため、必然的に心の内部まで浸透し、読後には魂の一部にまでなってしまっているのだ。(そしてたいていの人はこれに気がついていない。自己の内面を探求せずとも、実生活を何ら問題なく遅れるからである。)この話を読んでからというもの、私は私の心の内側に宿る恐怖感や不安感の源を幼児期の衝撃的な体験により抑圧された感情にまで遡って考えるということを学んだし、(一方で何でもかんでも幼児期の抑圧と結びつける精神学者がどうとかいう文句もどこかで目にしたが)この胸に宿る言葉ではいい表せそうもない情念や衝動にも、きちんと客観的な視点と理性で太刀打ちしうるという考え方を学んだ。理性的な振る舞いと、知的な成長の関連性に前よりも興味を持っている。

この作品の内包されたエネルギーの高まりの頂点を、ある頁からの抜粋により表してみよう。

 

「愛情を与えたり受け入れたりする能力がなければ、知能というものは精神的道徳的な崩壊をもたらし、神経症ないしは精神病すらひきおこすものである。」

 

「自己中心的な目的でそれ自体に吸収されて、それ自体に関与するだけの心、人間関係の排除へと向かう心というものは、暴力と苦痛にしかつながらないということ。」

 

知能の高まりと人間関係の排除という2つの関係についてはとても興味を持っていた。

チャーリィ・ゴードンのように「愚鈍に」ふるまうことが知能の高まりを経験時ている瞬間に不快に映るが、結局高まった知能というのは人類社会全体のための貢献という形で還元されるのだから、そのつながりは断絶できない。むしろ、経験を伴わない知識や知能といったものはそれ自体自家中毒的なものであって「知能」の定義に当てはまらない。再禁欲いう「適材適所」である。知的貢献に適う人間が人類全体の発展のための役割を担わうのだ。ゾンビが出てきて国がパニック状態になった時、率先して戦いだすのが軍でも警察官でもなく、仕事もせずにネットカフェに引きこもって、日夜FPSゲームに興じているゲーマーであるように。