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クオリティ・オブ・ライフ?

彼女がどうとかという話をした、頭の中で。

細胞の自己分裂で自分のコピーの個体を増やすと、その種は大きな環境の変化に対して弱くなる。雄雌を分けることで遺伝情報をシャッフルさせ、多様性のある個体を生み出すため、彼女が欲しいという欲望は理にかなったものと言えるだろうという話。

そのうえでいまの生活の上で彼女を作ることが現実味を帯びないのは、トップアニメータになりたいという欲望の方が先に来ているからであり、これはどうやら俺のアイデンティティの問題に深く関わっている。トンボは試験に合格して大学に行って、仕事を見つけて初めてキキと付き合ってくれと言える、とかつて語った宮崎駿の言葉のように、まずはそっちを達成せねばならないのだ。その達成途中の段階での女とうまく話せない、女の話すことに興味が持てない、云々と言った嘆きは総じてあまり意味がない。

 

クオリティ・オブ・ライフという言葉が最近頭に留まり続ける。

もとは医療関係の現場から発生した考え方らしいのだが、現在では普通に暮らす生活の質、という意味でも使ったりする。

身体の健康、良好な人間関係、やりがいのある仕事、快適な生活環境、QOLの指標であるそのどれもが、今の私にピンとこない。

 

問題はその外側にあって、もっと根深い。

 

最近、先輩三人と昼食を共にする機会があり、そのほとんどが、今の自分の考えているように自分が他人に与える影響、他人により自分が与えられる影響について、「普通の人」よりも深い洞察を持っていたことを知った。

皆真面目に生きているのだ。コミュニケイションを先の先の先の手まで読んでるし、与えられた意味の裏の裏を探っていたりもする。

わかる人間が、そのことをやればいいのだと思ったりする。分からない人間は、わからないままで不都合なく生きていけるんだから。わかる分だけ苦しんだり、損をしたりもするだろうけど、全体をスムーズに動かすことにかけてはわかる人の方がより賢い。

 

「最貧困女子」

「痴女の誕生」

「夫に死んで欲しい妻」

何かおかしいぞ、と思ってこれらの本を読みたいと思っている。というか、本当は今日買ってくる予定だったのに何かいろいろあって出来なかった。我らが岡田斗司夫著「フロン」を読んで、少なくとも2000年には良妻賢母も家父長制度も時代の反対側に蜃気楼となって消えかかっていたのだから、2016年現在もかくや、という話である。

良妻賢母を、自分が果たして女であったと仮定してイメイヂしている。

最近よくこういうことをしている。家庭の「良き妻」であることは、もはや時代が許してくれないようになっているのだ。何だかおかしくないか?女性のキャリア・アップを阻害するな!と、例の校長の発言に異様なほどバッシングが起きたことも記憶に新しい。子を産むことより、自分の自己実現の方が(そんなに)大事か?と、まあ直感に近い感覚で思ったりする。今の時代、キャリア・アップを図りたくさんの経験をすることがもっとも価値が高いのだ。(でもでも、そうしないと、生き残れなくて不安だからじゃなくて?)

ネットで簡単に世界が見れるようになったから、限られた場所に留まり続けることが相対的にストレスになってきたんじゃないかとも思う。

その一方で良き妻、良き夫というのはどうあるべきなのか、という話なのだけれど、

少なくともこの類のことを全て知り、その上で、あえて、こう振舞うということが大事になるのではないだろうか。こんな変な世の中だけど、「昔からの」の文脈や伝統的なあるべきモデルの死滅した変な世の中だけれども、少なくとも私たち二人はこう生きようね、こうするべきだよね、とかいう、まあジンクスや願掛け程度の事。

孤独。

孤独に耐え得ることが全てではないのか、と、結論付けたりもする。まあ濃密な人間関係はこの日本からなくなったよね。昔がどうだったかは正確には知らないけれど。深いつながりを大事にする性質が日本人特有のものなのか、はたまた生活環境から後天的に取得したものなのかもわからないけど、宗教もないし、寄る辺ない孤独はストレスに変化して何だか妙にイライラしたりもする。他人に心を許すこともできない人間は特にね。どのマンガもどの邦画を見ても、どんな歌詞を読んでもうまくやりくりする、昔ながらの方法なんて見つからない。(あ、岩崎愛とアンディモリは別ね。)だから外国の小説なんか読んだり、外国の映画なんか見たりしてんだろう。精神の支柱の最後の一本。タクシードライバーとか凄いじゃん。こないだ図書館で借りたドナル・ライアンの「軋む心」とかさ。

「孤独」に耐えられない心は何処かに「依存」先を探す。つまりそんなことをやっている連中が上述した奴らなのだ。校長の話をヒステリックに非難する奴ら。もうちょっと感性を研ぎ澄ませた方が良いんではないのか、ぜったい、どっかおかしいとか思ってるはずだから。地元の商店街が軒並み潰れていく様に心痛めたりしてるだろ?

「がんがんいこうぜ」の奴らはそこから逃げたがってるだけに過ぎないんだよ。留まったままだと孤独がやってきて怖いから。

いろいろとゆっくり死滅していく最中の社会で、どこかに安定したものを見つけるべきなんだよ。それこそが良い家庭を作る冴えたやり方でさ。そうなるとこれまでよりもいわゆる「コミュニケイション」を綿密にしていくって結論に至る。よく日本は察しの文化だっていうじゃん、あれ本当は違うんだよ。こっちが察しないといけないってのは、自分が相手に察されないといけないってことと同じことだからね?それは美しくも何ともないわけさ。察されないといけない人間の状態って、たいてい自分のことしか考えてなくって、碌なもんじゃあないからね。自分もそんな状態で亡くなる代わりに、相手のことを察するのをやめる。そのためには、これまで以上にラフなコミュニケイションが必要になってくる。

そしてそれは欧米の人たちのコミュニケイションのやり方と全く同じ形になるのではないか?そう考えると欧米の人たちって凄いよな。アメリカ大陸なんてもともと伝統も文化も何もなかった土地だもんなあ。

(人工的に作られた)「家族」のイメイヂに依存していたかつての家父長制全盛期の頃の父親の情けなさも、これで克服できるしいいんじゃないの

 

と、いうわけで、自分の中で彼女ができるのか問題という卑近な問題はこういう結論に至ったのだった。回りくどいなあ、もっとスッとできないかな俺。でもおれは結婚した妻に死んで欲しいって思われるのも嫌だし、誰かに死んで欲しいって思うのも嫌だよ。

適切な発散処理をしさえすれば、こんなストレスもなあなあで解消できるハズなのに・・・その人間関係が死滅してってる途中なんだからなあ、

 

こんなこと考えてる間も他人に心を許せない俺はガードの境界線をゆるやかに撤退させソフトラーンディングさせようとしている最中なのである。