効き目の遅い頭痛薬 / 敗北してから現れるヒーロー
a girl like you 森へ往く方法/ 森から出る方法
という同人誌を買うために、立川のメロンブックスまで行った。内容は素晴らしかった。思ってた10倍は良かった。
けむほこという人は天才だと思う。日常という不可逆の流れは、どんなに特別だったことも、刺すような喜びも、痛いほどの悲しみも、すべてきれいに押し流してだんだんと忘れてしまうようにできているのだから、
何よりも特別な今この瞬間を、それが至上なものとして、何度でも思い返せるように焼き付けておかなければならないんだという
その感性はとても共感できるものだし、何よりこの本の中で描かれる二人のやりとりが一つ残らずスクラップして、アルバムに挟んでおきたくなるほど微笑ましい。
模造クリスタルのゲーム部では、ある日最悪のことが起こってもその瞬間は死にたくなるほどに気が滅入るけど、日常の流れが全て押し流して元どおりの生活に戻っていく様をある種の救いのように描いていたが、確かにそれは忘れたいことだけではなく
忘れたくないこと、忘れてはいけないことまで
日常の無常の流れに流されて、のっぺりした無感動なものになってしまうのだ。
疲れてしまった時は何かしようと躍起にならず
よく寝て、よく考えられるようにしないと。
そして毎日の代わり映えしない一瞬一瞬をよく目に焼き付けて、後から思い出せるようにしないとなあ
と思った次第。
タイムリープする能力を手に入れて、友達に話そうか一晩考えるくらいの時間の流れのゆるやかさ
ようやく立ち直った。
立ち直ったというほどでもないが、排泄するようにして仕事を片付けて入れば何かやった気になって、気分も晴れる。
昨日から今日にかけて、7月と8月の狭間は不安定だった。久々に明け方までネットをさまよって、様々なゲームの怖い話などを読んで、それはそれで楽しかったのだが、やはり読み応えのあるテキストがあったのでコワイシャシンの嘘かまことかわからない怪現象がイチオシだな。
そんなもの、たまにあるどうしようもない気分の抑うつでとってしまった行動を、それも人生においては必要なのだとポジティブに捉えているだけに過ぎなくて、実際のところそういう快楽に忠実なだけの自堕落さは嫌いだし悪い影響しか及ぼさないことも知っている。
昼間、この日中の炎天下にずいぶん遠いところまで散歩して、帰ってめちゃめちゃカット出して、ようやく気分が回転しだす。まだやることはいっぱい残ってるけどね。
どうして創作の中の人間はああも端的に感情を言い表せたり、赤面しそうになるセリフを言って相手もそれを受け入れたりできるんだ、と思い、そりゃあ創作の中だからさとか思う。アニメや漫画ばかり見過ぎている俺は現実感の方がそれに上書きされてしまっていて、何故かアニメや漫画の様な会話でなければならないと思い込み、そんな青春でなければならないと思い込む。その思い込みに気づかない場合もある。
倫理とか矜持とか大層な名前をつけた意固地さは実に意地悪に現実生活に破綻を生み出して、それが単なる思い込みだったことを知らせる。
あー快楽に流されてしまうほど心が弱るのが嫌いだ。今の状態が本来の自分なのだ。たかが中高大学の10年たらずの経験を頼りに、「そうやって流されてしまうのが本来の僕だよねー」などと心の底で思っている自分も、結局は快楽の一部なのだ。こう思っている自分が本当のゼロ地点の自分なのだ。
また頭の痛くなる様な話を聞いて、今日も終電を逃してタクシーで帰る。
儲かった、儲かった。
終わってみれば何のことはない。
なんて言ってみると嘘になるが、
またまたこの業界とは...と頭を抱えたくなるような矛盾に満ちた奴隷労働を終えて、平均的な月の稼ぎの実に2倍もの金額を勝ち取ることができた。
終わってみれば、何のことはない。ゲロ吐きそうなくらいに不安でしんどいものだったけど、
原画に上がる前に体験しておいて何も損はなかった。おかげでちょっとは、強くなった。
なん年ぶりだよってくらいの代休をもらって、平日の昼間に新宿にニンジャバットマンを見にいく。人混みは怖い。情報量過多で、頭がパンクする。この中の誰とも関係を持てる自信がない。何時間もいると、孤独感により見当識が危うくなる。
と、思っていたが、あのヤバい労働を乗り越えた後の頭では明らかに何かが鈍っていて、鍛えられていて、強くなっている気がした。
ファーストキッチンでチーズバーガーを頬張っていた時に、バイトの女子高生が学校に行く時間がないと話しているのを聞いて、東京の高校生はバイトが学校の時間を侵食するものなのか、僕が高校の頃はその時間は絶対のような気がしていたのになあ等と思う。きっとかつての僕に必要だったのは、甘く守られた自宅のPCの前に座っていることではなくて、外部とのつながりを開拓して、自分でコントロールする強さだったんだな。
映画が始まるまでの間、暇を潰しに紀伊国屋まで出向くと、足繁く通っていた芸術図書コーナーの場所が移動して、縮小されていることに気づく。何だかなあと思いながらも、そこで立ち読みをしながら小一時間の時間を潰す。HOW TO 絵の書き方などという本はもう読まない。もう必要なくなったのだ。異国の写真集なぞを眺めながら、ここではない世界の果てで生活している人々について考える。なんだかなあ、この凝り固まった、日常的なものに支配された世界観や倫理観は、このページの上の世界では意味をなさない。その場ではその場所の価値観があって、それぞれの法則によって彼ら彼女らの世界は動いている。そんなことを考えて今いる自分の世界の相対化を図る。私は自由になりたいのだ。
うちに帰って、サークルドットMSを立ち上げて、コミック1の参加申し込み登録をする。その晩のうちに入金を済ませる。本当は夏コミ後のコミティアに出るはずだったのだ。10月開催だが、ひとまずの目標ができたことに安堵する。
絵を描くという行為が、社会とかみあい、回転しだす錯覚を感じる。それは生きてるって感覚だ。
生活と、観念と、価値観と思い込み、その凝り固まって、堕落した頭の中身は、超過労働、激務によって刷新された。原画に上がる前に、体験しとくべきイニシエーションだったのだ。超えられるハードルだったのだ。
徹頭徹尾自分のことしか考えない。この場所で生き残って行く秘訣はそれである。自分に利するところがあるからやる。興味のないことは一・切やらない。自分が超強くなって、その労働が結果的に他人の人をも救えるのだとしたら、強くなることと、他人から乖離して行くこととは矛盾しないんじゃなかろうか。
溜まっていた洗濯物を洗って干したら、風呂場に溜まっていた悪い気がいくらかマシになった気がする。
今日はちゃんとゴミを捨ててから、会社へ行こ〜っと。
欲望の正しい満たし方
浮かんでは消えていく想念を書き留めておく術をもたない。
もっと本質的なことを、差し迫ったことを考えているはずなのに、「書く」という行為に至った瞬間に頭の中から霧消してしまうことが多くって困る。
状況が最悪なのに2原のスピードが上がらないから、何も力になれないことが歯がゆくて腹立ったしい。もっと力があればなあ。
本当はもっと違うことがしたいのにべき論で行動してしまって、いつも正直になれないで困る。
「書く」という行為以外の日常を全て最小化してしまえば、書くスピードも上がるんでないかと安直にも思ったのだが、徐々にヘイトと衝動がたまり行き、立ちいかなくなる。気分転換とは言わぬが、何かその衝動を満足させる行動が必要だ。思ったイメージはいつも現状の2、3歩先を行き、絶望の袋小路へと迷い込んでしまう。この世界には絶望しかないような気がしてしまって、禁煙していたタバコも吸ってしまう始末。
ちがうのだ、あの人も、僕が嫉妬と羨望の目線で見つめているあの人も、あの人も、
仕事しかしていないように見えて、なにか自分のペースを取り戻す日常の何かを持っているはずなのだ。飯を抜いても動画のスピードは上がらないように、逆説的に見える事柄は、意外と真実だったりする。
そんなことで駅前の居酒屋でしこたま酒を飲んだ後、カラオケで心ゆくまで酔いしれて帰路につく。眠りに落ちるのが難しい夜は、酒を飲むのもあながち間違いではない。
全日本総ADHD化社会という、また主語を大きくして勝手に絶望に浸っていた。確かに思い当たるところは多々あるが世界全体がそのような気質になっているように見えて、それは自分の気質を世界に投影しているだけの「セカイ系現実応用編」なわけですね。
ハンターハンターが連載再開をするというニュースを見てまた少し世界に希望が湧いてくる。
大暮維人の化物語を毎週見ることができて、世界に希望はあるような気がしてくる。
後輩の女の子と最近距離が近くなって、世界に希望が持てたような気がしてくる。
酔っ払った頭で帰路についている時に、家の近くにある女子校の前を通りながら、バス停で帰りのバスを待っている女子中高生たちを見ながら
誰かこの女子高生が困っているところを何かの折で助けたりなんかして、
それがきっかけで仲良くなったりなんかして、
隣の団地に住んでいたりしたら、この街に知り合いができたことになって、
文化祭なんかに入って、その娘の友達とも話したりして、出し物を見て、適当に感想を言ってから買って、その娘の友達の出している屋台で一緒にご飯を食べて、女の子の知り合いがたくさん増えて、
たまに夕方になんかにふらふら帰ってたりたりしたら、部活終わりの女子高生たちに、お兄さんおかえりー!なんて言われたりしたら、ちょっとは希望が持てて、
この街に住んでいるという実感も得られて、
とってもいいんじゃないかなって思った。
この妄想は文章にして世界中に発信されたまま半永久的に消えないわけですが、
この自分の頭の中身は、ちょっとした希望や絶望がハウリングして長く続くようにできているから、
そんな妄想一つで12時間は元気でいられたりするわけですよ、だから別に、過去の発言を掘り起こされて、何かの折に叩かれるような社会でも、これくらいは許してくださいよって思うわけで。
いつからこんなメンドウクサイ世の中になってしまったのだろうと、
俺はまた「イメージと印象によってネガティブな部分が忖度されたユートピア的イメージの中の昭和」という存在しない過去の世界に逃げ込むわけですね。
昭和に生きたことのない平成生まれの僕だけど、昭和っていいよなあというイメージだけの異世界に精神だけでも転生して、
仮初めの希望を手に入れるわけ。
でも昭和65年って異世界感あっていいよね。
最近はSCPとかクトゥルフ神話とか理性の及ばない世界の物語をアホみたいに読んでいる始末。
世界に希望はあるのだろうか?
これもうまいアニメが作れれば解決する問題ということでどうでしょ、ひとまずこれで寝るとしよう。
明日の朝になってみればちょっとは気分も良くなっているはず。LINEも来てくれたしね。
また、みてね
今週のプリキュアも素晴らしい、なんども泣かされてしまう始末。
すべての工程において、アニメーションの実制作は複雑怪奇な上に人手がアホほど要るために事故が起こりやすく、「作業の効率化」が難しい。
すべての工程を俯瞰して把握できない (ほどに複雑な)ために、目の前のトラブルを解決したつもりが、それが結果的に後の工程に致命的な遅延をもたらしてしまったりする。
一人のスーパーアニメーターが描いた神のような絵コンテをそのままの完成度で映像にするためには、情報の疎通、意思の疎通が限りなくスムーズにできる現場が必要だし、志の通った同じ方向を向いて仕事のできる、気のあった仲間が必要になる。作画の方向性、演出の方向性の些細な違いによる対立は現場で致命的な混乱を生み、そしてそれは致命的な時間のロスにつながる。
しかも、その対立は時に目に見えない形で進行していたり、単純な行き違いや誤解によってもたらされるものだったりする。冷静に考えれば、そこは普段の会話のように、お互いが融通を利かせてうまく対応すれば良いのだが、ものを作るときの「こだわり」は時に脳味噌を熱くさせ、理屈ではなく、感情的な判断を優先させてしまうことだって起こりやすい。そして出来上がったものはといえば、ぎこちない演技、どこを向いて喋っているのかわからない会話、妙に台本くさい口調で長々と喋り出すアニメの絵、反応速度の鈍いアニメの絵、そこだけ妙にリアルで浮いてしまっている爆発、お前さっきまで違う場所に居たろ?と瞬間移動を覚えたアニメの絵etc.............
これも演出と作監がうまく全体のテンポをコントロールできないために起こった悲劇といえよう..............
アニメは「良い絵」がないと何も始まらないため、現場では絵が描ける人のそう言ったエゴを許容してしまいがちで、そのムラ社会感と言ったら良いのか、それによりもたらされる「作業の非効率化」が、現場の問題点と言えるではないでしょうか。
しかし、今週のプリキュアはすごい!単純な絵が!オーバーな動きが!パースのキマッたレイアウトが!絶妙に物語と絡めあって、溶け合って、そこにはHugっとプリキュアという世界がある!パカパカと元気よく動いているギャグ顔も、ルールーの光と陰の演出も、綿密にコントロールされていて現実との違和感を感じさせない実に良い虚構の世界。画面の隅で、本筋の話とは関係のないところで一人でてれてれと汗をかいてるはなを見て、ああこいつは灯台モトクロスにしたり顔でうなづいてしまえるくらいにバカ(褒め言葉!!!)なんだと、ここには血の通ったキャラクターがいるなと一人で胸を熱くする。
例のコスプレ姉さんを裏切って、ルールーがほまれの前にプリハートを差し出す瞬間!
その瞬間の高揚に、意識の胸元をぐっと掴まれる。
「がんばれプリキュア!!!」
プリキュアがんばれ!がんばれほまれ!!作画の良さとキマりにキマったレイアウトが昂まったテンションを後押しする!はなとさーやがやられた今、セカイを救えるのはお前だけだ!あの謎に怖すぎるオシマイダーをやっつけろ!!
と考えていたら、最後の唐突な展開、突如音量の狂ったSEにカブセて轟音でがなりたてる不穏なBGM。一瞬何が起こったかわからない、明らかに直前の戦闘よりも異質な終わりの予感がそこにある。
「あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”!!!」
「ねえルールーが、ルールーが死んじゃったよ!!ルールー!」
今までの人生で、まったく初めて直面する衝撃を全身で受け止めて震えるはな
無機質な動きで崩れ落ちるルールー
この衝撃も、これまでの誠実な積み重ねがあってこそだ。
何事もなかったかのように始まる晴れやかなEDと妙に明るいダンスを潤んだ目で見ながら思ったね、そうか、これは、未来に希望を持たせるための物語なんだ。パン屋さんに本屋さん、キャビンアテンダント、なりたい自分になれるように。そしていつか君に好きな人ができて子供ができた時、それはあたかもはなの家庭のように、一緒に支え合って生活を紡いでいくことができるように。その可能性は∞無限大なんだと。なんて素晴らしいお話なんだと思ったね、HUGっとプリキュア。ネガティブなことしか起こらないような世界で、夢と希望などといううすら寒い言葉によくもこんなリアリティを感じさせてくれるもんだと、そうか、やっぱり大事だよな。それはもし実現してしまえば当たり前になってまったく輝きを失ってしまうかもしれないけれど、いまはそれが一番手に入れることが難しい未来な気がしているんだ。
普遍的に愛を謳って応援してその感情を現実へと持ち帰ることのできる、なんて素晴らしいお話なんだと思ったね。一人の人がうまく作れば、うまく工程をコントロールすれば、たった24分でこんなにも虚構の世界に夢中にさせることができるわけだよ。まごうことなき、本物の世界だと感じることができるわけだよ、そこから得られた高揚感や、希望や「夢」は、テレビを消した後でもずっとずっと残り続けるわけだ、君のこれからにはきらきらと輝く未来があって、その広がりはとても素晴らしいものなんだよって。いつか大きくなった時に 、自分で体験してわかるから。
そうだろ?みんな
俺たちはそんなことを繰り返して成長してきたんだ。先行世代のアホみてーな時代遅れの価値観に希望を持てなくなることだってあるだろうが、君たちの未来が、そんなに辛くて苦しいものであってたまるもんですか。