また、みてね

今週のプリキュアも素晴らしい、なんども泣かされてしまう始末。

 

 すべての工程において、アニメーションの実制作は複雑怪奇な上に人手がアホほど要るために事故が起こりやすく、「作業の効率化」が難しい。

 すべての工程を俯瞰して把握できない (ほどに複雑な)ために、目の前のトラブルを解決したつもりが、それが結果的に後の工程に致命的な遅延をもたらしてしまったりする。

 

 一人のスーパーアニメーターが描いた神のような絵コンテをそのままの完成度で映像にするためには、情報の疎通、意思の疎通が限りなくスムーズにできる現場が必要だし、志の通った同じ方向を向いて仕事のできる、気のあった仲間が必要になる。作画の方向性、演出の方向性の些細な違いによる対立は現場で致命的な混乱を生み、そしてそれは致命的な時間のロスにつながる。

  しかも、その対立は時に目に見えない形で進行していたり、単純な行き違いや誤解によってもたらされるものだったりする。冷静に考えれば、そこは普段の会話のように、お互いが融通を利かせてうまく対応すれば良いのだが、ものを作るときの「こだわり」は時に脳味噌を熱くさせ、理屈ではなく、感情的な判断を優先させてしまうことだって起こりやすい。そして出来上がったものはといえば、ぎこちない演技、どこを向いて喋っているのかわからない会話、妙に台本くさい口調で長々と喋り出すアニメの絵、反応速度の鈍いアニメの絵、そこだけ妙にリアルで浮いてしまっている爆発、お前さっきまで違う場所に居たろ?と瞬間移動を覚えたアニメの絵etc.............

これも演出と作監がうまく全体のテンポをコントロールできないために起こった悲劇といえよう..............

 

アニメは「良い絵」がないと何も始まらないため、現場では絵が描ける人のそう言ったエゴを許容してしまいがちで、そのムラ社会感と言ったら良いのか、それによりもたらされる「作業の非効率化」が、現場の問題点と言えるではないでしょうか。

 

 

 

 しかし、今週のプリキュアはすごい!単純な絵が!オーバーな動きが!パースのキマッたレイアウトが!絶妙に物語と絡めあって、溶け合って、そこにはHugっとプリキュアという世界がある!パカパカと元気よく動いているギャグ顔も、ルールーの光と陰の演出も、綿密にコントロールされていて現実との違和感を感じさせない実に良い虚構の世界。画面の隅で、本筋の話とは関係のないところで一人でてれてれと汗をかいてるはなを見て、ああこいつは灯台モトクロスにしたり顔でうなづいてしまえるくらいにバカ(褒め言葉!!!)なんだと、ここには血の通ったキャラクターがいるなと一人で胸を熱くする。

例のコスプレ姉さんを裏切って、ルールーがほまれの前にプリハートを差し出す瞬間!

その瞬間の高揚に、意識の胸元をぐっと掴まれる。

「がんばれプリキュア!!!」

プリキュアがんばれ!がんばれほまれ!!作画の良さとキマりにキマったレイアウトが昂まったテンションを後押しする!はなとさーやがやられた今、セカイを救えるのはお前だけだ!あの謎に怖すぎるオシマイダーをやっつけろ!!

 

 と考えていたら、最後の唐突な展開、突如音量の狂ったSEにカブセて轟音でがなりたてる不穏なBGM。一瞬何が起こったかわからない、明らかに直前の戦闘よりも異質な終わりの予感がそこにある。

「あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”!!!」

 「ねえルールーが、ルールーが死んじゃったよ!!ルールー!」

今までの人生で、まったく初めて直面する衝撃を全身で受け止めて震えるはな

無機質な動きで崩れ落ちるルールー

この衝撃も、これまでの誠実な積み重ねがあってこそだ。

 

何事もなかったかのように始まる晴れやかなEDと妙に明るいダンスを潤んだ目で見ながら思ったね、そうか、これは、未来に希望を持たせるための物語なんだ。パン屋さんに本屋さん、キャビンアテンダント、なりたい自分になれるように。そしていつか君に好きな人ができて子供ができた時、それはあたかもはなの家庭のように、一緒に支え合って生活を紡いでいくことができるように。その可能性は∞無限大なんだと。なんて素晴らしいお話なんだと思ったね、HUGっとプリキュア。ネガティブなことしか起こらないような世界で、夢と希望などといううすら寒い言葉によくもこんなリアリティを感じさせてくれるもんだと、そうか、やっぱり大事だよな。それはもし実現してしまえば当たり前になってまったく輝きを失ってしまうかもしれないけれど、いまはそれが一番手に入れることが難しい未来な気がしているんだ。

 

普遍的に愛を謳って応援してその感情を現実へと持ち帰ることのできる、なんて素晴らしいお話なんだと思ったね。一人の人がうまく作れば、うまく工程をコントロールすれば、たった24分でこんなにも虚構の世界に夢中にさせることができるわけだよ。まごうことなき、本物の世界だと感じることができるわけだよ、そこから得られた高揚感や、希望や「夢」は、テレビを消した後でもずっとずっと残り続けるわけだ、君のこれからにはきらきらと輝く未来があって、その広がりはとても素晴らしいものなんだよって。いつか大きくなった時に 、自分で体験してわかるから。

 そうだろ?みんな

俺たちはそんなことを繰り返して成長してきたんだ。先行世代のアホみてーな時代遅れの価値観に希望を持てなくなることだってあるだろうが、君たちの未来が、そんなに辛くて苦しいものであってたまるもんですか。

 

ギュイ〜ンとソウルがシャウトするのです

なんの理性も計画もなく、欲望をただただ書き連ねたブログ。

 

HUGっとプリキュアの15話が良かった。田中裕太さんか、と思う。

ああいう漫画みたいなアニメを、一度は描いて見たいものである。

たまにツイッターとかで上がってくる、バスケのシーン一連の作画とか、1話の戦闘パートの作画とか、HUGっとは見るべき話数が詰まっていそうな匂いがする。

来週も好きな感じの作画だった楽しみ。アニメはリアタイで観よ。

 

映像研には手を出すな!星明かりグラフィクス ふだつきのキョーコちゃん 来世は他人がいい を買って読む。週末だから。

週末だから、等々力渓谷へ行ってくる。東京のど真ん中にあんな場所があってびびる。

上野オークラ劇場へ行ってピンク映画を見る。30分ほどみていると、席などいっぱい空いているのにぴったり隣におじさんが座ってチラチラこっちを見てくる。はあ、と思ってばくばくしながら平常心でいると、自分の股間を触っている。中腰になってズボンを下ろした瞬間リュックを持って逃げるように外へ出る。あそこはそういう暗黙のルールがあるのか?ホームのトイレみたいに?

1600円も払ったのに。来週別の席で再挑戦しようと思う。

ニュースーパーマリオブラザーズをほぼほぼクリアしてきたのでブコフでぷよぷよを買う。兼ねてからぷよぷよを極めたいと思っていたのだ。太鼓の達人のように。何も考えないでできるゲームが好きだね。もう少し慣れてきたらもっとものを考えるゲームでもやってみようかな。

 

「不当に働かせられている」意識がまったくよくない影響を及ぼしているように思う。週末きちんと休むことで、対立構造を打開する第3の選択肢が生まれるような気がする。しれ〜っと終わらせようぜ。何も言わないで涼しい顔してるけど、本当は誰より一番働いてるみたいなのに美学を感じるんだ。

乗り越えた系と、はじめからなかった系

マジ吉良吉影に関する考察なんて書いてる場合じゃなくって、最近はもうそんなもので悩む必要も無くなっている、生活を立て直す、この抑うつ感を乗り越える。

 

何か社会生活に快感ポイントを感じる部分を見つけないと、また僕はいつものように人混みの中に出て、その中の一人でも誰かと関係を作ろうと思った時にとんでもなく大変な憂鬱の連続を乗り越えないといけないのかと考え、そのハードルの高さに驚愕し、一人だけの世界に閉じこもってしまう。

 

https://twitter.com/akiman7/status/992955814649348097

 

 

あきまんがこういうことを呟いていて、じゃあ自分は絵が下手な焦燥感よりも、孤独感の方が強いんだとか納得してしまう。

いや、多分もっと昔は、絵が下手なことを恥じ入る気持ちの方が強かったのだろう、だからろくな人間関係も築かず、一人っきりで図書館で絵を描いていたのだろう。

自分の絵の出来を許せるようになって来たから、孤独感の方が強まって、

安定的なものを求める方へシフトしているだけなのだ。

 

3日間もらったGW(笑)、土、日、と、死んだようにマリオをやって自分は機能していなかった。その甲斐あってか1日半ぐらいでクッパ城まで行って一通りクリアできた。

起き上がれない、とか思ったけど、いっつもこんなんじゃんとか開き直ってやっていたら、昼夜逆転昼夜逆転を繰り返してちょうど早朝に目が覚めて、それで自分の頭がスッキリしていることに気づいた。頭の洗濯だったな。僕普段ゲームやらないからわからなかったけど、モンハンワールドとか○時間もやって皆すごいな〜なんて感じていたけど、脳みそを洗たくするのってすっごく気持ちがいいね。

 

上長がいつも使ってるとか言ってたsmartnewsなるアプリを自分も入れて、本当にヒマな時にテキトーに見ているんだけど、オタクと恋愛の両立は難しいのかなんて記事があって、やはりそこは難しいが多数を占めていた(アドレスを失念しているので印象のソースしか残っていない)

簡単だと答えた人の中に、「そもそもそういうものじゃないから」なんて言ってる人がいて、そうかこの人にとっては恋愛をするために乗り越えるべきコンプレックスが何もなかったんだなとか思う。いや、もしかしたらちゃんと乗り越えた後の人なのかも、

両者は同じ結果を表しているが、過程が全く違うため、本質的には結果も全く違う。そういうコンプレックスはじめからなかった奴に、そういうコンプレックスを乗り越えられなかった奴に、面白いものが作れるとは到底思えないし、自分はそうありたくない。

 

https://twitter.com/31104423/status/993023900723302401

 

「わからない」ことが「わかる」ようになる変化を経験した。

高校生の頃にかいてたyahooブログを読み返して見ても、なんて頭の悪い、底の浅いことしか書いてないんだろうとか思うし、しかし当時は自分はクラスの中でも他の人よりかはものを考えていると思っていた。この変化は今の自分にも起こり続けていて、例えば去年のGWに僕は自分の住んでいる町の周辺を徘徊しながら、どうして吉良吉影みたいに慣れないんだろうなんて考えていたし、今ではもっと他に、考えなければならない大切なことが山ほどある。

自意識のことを考え続けると、カタツムリの殻の中に入っていくように先はないなんて宮崎駿も言っていたし、昨年の自分はそれがわからなかったのだ。

 

ずっとずっと気になっていたカトリーエイルと大富豪の陰謀をやって見たがUIがクソ、説明文、もっと分かり易く書け。なによりカトリーのグラフィックが可愛くない。

やっぱLEVEL5嫌い、日野晃博と感性が合わない。

児童文学の精神やで。下品なのは嫌い。

折衷案と折り合いの間の妥協点

エンダーの仕事っつーかそんなふざけたタイトル書いてる場合じゃなくてこのまま惰性で終わらない仕事を続けていたらマジ死ぬと思う、マジで。

 

マジ今日も何故そんなにモチベーション下がらないんですかなんてキチ◯イ見るような目で見られる日々で言い知れない疎外感を感じて優しさのゲージは目減りしていく一方。

 

頑張れば頑張るほど周りの皆との立っている場所の乖離は大きくなっていき、それは喜ぶべきことでもあるのかも知らんけど

 

うっせえよ、死ねよバーカじゃあ誰がこのリテイク直すんだよ、TPリテークなんて作監とおらんからグレーだななんて言ってる場合かボケ!じゃあ安定したスケとリテーク対応やれる作監見つけて来いボケ

 

なんて考えながら一方で、じゃあ俺は何故こんな自分の時間を自棄になった様に切り売りしてまで不毛なリテーク作業を続けてるんだろうという気にもなる。なぜか?わからない。自分の気持ちがわからないから外からのそうした視線をより敏感に感じてしまう。

 

じゃあこのまま俺死んでしまうと思って、深夜一人で孤独に直して死ぬほど辛い気持ちになってもへたれない死にそうな気分に殺されないための文脈と覚悟が切実に欲しくなる。俺の精神全部が生きるために全力で欲している。

 

愛情を欲しそうな目で見て今まではその愛情に依存して、愛情があるからなんとかやっていけるって思っていたしそうした自堕落な生活から抜け出せないでいたけれど、本当の意味で一人で全部決めてなんとかやってく強さを欲して来たしそれを得るきっかけが欲しかった、本当は。

強くなりたい、そして金を稼いで自由になりたい、普段の生活が欲しい、日常が欲しい、絵の能力を上げて自由になりたい、自由になって絵が描きたい、

 

不毛なリテークを続けるのはこの不毛な状況をコントロールしたいからだ。解き明かして、失敗している点をクリティカルに洗い出して、俺の目の前から二度と根絶したいからだ。そのためにはどうしようもなさの渦中、その一番しょうもない、鈍臭い、不毛な場所へ飛び込んでく必要があるからだ。別に、リテーク受けなければいいじゃん、そのための大義名分もちゃんと、それこそちゃんとしすぎるほどに用意してくれていたわけだし、LO取りゃいいじゃん、7時半に帰って絵描きゃいいじゃん、でもそれをしない、それをすると、本当に目を背けたいところから目を背けてしまい問題の全貌が把握できなくなるからだ、同じ過ちの渦中に放り出されて、目と耳を紡いで縮こまるしかできなくなるからだ。ふざけんな、そんなことってあるか、この繰り返されて来た不毛さを自分の中だけでもいいから終わらせたいんだ、怒りによって増幅された死ぬほど高い圧倒的なキャパを持ってしれっと軽〜く終わらせてしれっとloの直しをやってる、これがやりたいんだよ俺は

エンダーの仕事

仕事は終わるもの

 

いや、終わらせなければ終わらない、

 

一見トートロジーのように思えるその状況、「終わらせられる者」でなければ終わらない仕事。

 

 

そう私はエンダー、全てをEND "終わらせ" 全てを———無に帰すER。 

"E"  "N"  "D"  "E"  "R"

それが私に与えられた、不名誉な呼び名。

 

 

 

 

モニタールームは拍手喝采で、泣き出す者までいる。まばらに明滅するその画面には、開かれたファイルサーバー5と、その中にある提出用フォルダ。

上から数えてきっちり35カット、psdデータの整列。

何かがおかしい、異変に気付く僕、喜びたいのはこちらの方なのに、何か異様な雰囲気だ。

戦闘を終え敏感になった本能がそう訴えかける。頭の中で、僕の頭の中だけに、敵が攻めてきた時に流れる、もう何度聞いたかわからないうざったい緊急アラートが鳴り始める。

「何をそんなに...喜んでいるんだ!」気付くと叫んでいた。

「僕はゲームをやっていただけじゃないか、原画試験というゲームを!試験に受かるか受からないか...そのゲームを!このゲームに勝てば僕らは晴れて原画の道に...」

「もうその必要はないのだよ、エンダー。」

見たこともない老人が、やけにはっきりとした口調で喋る。

「君は長いこと、実際のゲームをやってきたんだ、実際の——————現実にある、現実そのものをね。

「まさか————————————

僕は言葉を失う。老人が言ってることは理解不能だ。

「使うっていうのか?これを?僕の描いたレイアウトを?放送するっていうのか!?

ウソだ!だってこれはゲームだって、ゲームだって...言ったじゃないか!原画試験だって言ったじゃないか!」

「エンダー」

不思議と落ち着いているその声の主は、深い感動をたたえた調子で、言い含めるように喋り出す。」

「騙して悪かった。しかしこの、未成熟な承認欲求を抱えた君を、実戦で使うわけには行かなかったのだよ。実際の原画作業だと知ったら君は、描きたい絵と、描ける絵との間のギャップで吐くほど悩み、苦しみ、少し褒められただけで過剰に舞い上がり、けなされると必要以上に落ち込み、鼻から使い物にならなかっただろう。」

「だって、そんな——————!、じゃあ!僕らが殺した奴らは...!

「そう、バガー"侵略者"だ。君の心を侵略して、絵を描けなくしてしまう奴らだ。」

「僕は...彼等を殺したのか....!!!」

「そう、殺した。殺さざるを得なかった。人類が、なにより君たちが——————生き残るためにもね。」

 

 

 

 

信じもしないが判断も下されない段階

 コージィ城倉という人のチェイサーという漫画が面白い。

試しに2巻だけgeoで借りてみて、面白かったのでそのまま深夜のゲオに戻り、隣の喫茶店で最新の4巻まで読んでしまう始末。(これは快楽に引っ張られていると言えるのだろうか?自制しようと思うのだけれど、こういう人の生活から外れたオタク的な興味はどこまでが肯定されるべきなのだろうか?)

なんてったって絵がいい。出てくる人物は男臭い主人公に漫画編集者達しかいないのだが、丸っこく柔らかそうな、どことなく手塚治虫に似ているタッチで描かれていて、ごくたま〜に出てくる女の子もちゃんと可愛い。背景と人物に同じくらいの興味を払って描かれていて、この人の描く世界は安定して、信用できる絵の世界だと幸せになる。

 1話を読んで、手塚治虫の野次馬的な挿話に興味を惹かれ、この感じが全話続けばいいのになと思っていたらこの漫画はそもそもそういう漫画だったし、海徳光市氏は実在しないらしい(笑 昔の漫画業界事情はこうだったのかという面白みもあるし、主人公が手塚治虫に嫉妬し口では認めないと言いながら、その真似を続けるのをやめることができない愚かしさはどことなくアオイホノオに通ずるものがある。

 問題はその愚かしさにあるのだ。物心ついた頃からこの欲望にずっと悩まされ続けているのだし、だからこそ今、まさに、この漫画を読むのがこんなに面白いんだろう。自分の問題意識とつながっているからだ。

 自分にとっての創作物とはその問題意識を持った登場人物に共感を得ながら、それでもコマの中で客観視し、その問題意識そのものを客観的に捉えられるようにするためのもので、だからこそ、大衆の暇をつぶすために作られたキャッチーで下品な物語類や、売れた後に出てくる似たような後追い企画ものに苦々しい、受け入れられなさを感じるのだ。「チェイサー」での注目すべき点はその手塚治虫氏の「創作に取り憑かれた狂人」ぶりであり、「だれもやったことのない、前人未到のことがしたい」という底の見えない欲望の恐ろしさである。ここまで何かを作り出したいと思う狂気(情熱とかやる気とか、あえて良い風には書かない。)とは何なのだろう?だれが得をするのだろう?しかし当の手塚治虫はその狂気に犯され続けながら驚異的な物量の仕事をこなしてゆき、しかし世間の評判は移ろい易く、アトムの視聴率は最終回を目前に右肩下がりになり、作風が暗いなどと揶揄されるようになる。手塚治虫の芸術性が過度なリテイクを乱発したり、漫画との掛け持ちでアトムの動画までやっているせいで遅刻して、現場のスタッフに怒られたりしている。本当に、誰が得をするのだろう?

仕事量に比例して、幸福度が増えていくのならまだしも、何かを作りたい、作らなきゃ死んでしまうという個人のエゴは、どこまでいっても個人のそれである。アトムのグッズが増えて、子供達を笑顔にさせた、明治製菓の利益が上がった、リミテッドアニメーションを世界で初めて開発した。そんなことと、実生活の中での幸福度は、どうすれば釣り合いが取れるのだろう?どこまで新しいことをやり遂げたって、その結果に担保されない人間関係を築かなければ、どこまで行ったって孤独のままである。

 

 夜に寝ないと理性が弱くなるために、感情的になってしまう自分なのだけれど、

Loが終わらなくって夜中に残って一人で描いていた時に、とんでもない孤独感を感じたことがあった。僕はあの感覚が怖いです。なにか驚異的な達成と引き換えになったとしても、全く釣り合いが取れるように思えません。だから、なにか創作をする際にも、となりに誰かがいてくれなければできないように僕の脳みそはできていて、いままでは、かといって、一人になりたかったり、なにか大きなことを達成しようとしたいという「発作」(作中では、「悪いクセ」)を起こしたりしていたけれど、チェイサーの手塚治虫のあり方を見ていて、そういうのって、全てバランスなんだなと思うようになった。

 これはもしかすると、今がその残って描いてたLoを上げきって、一仕事終わった今だから言えることなのかもしれないし、またしばらくすると孤独の痛みを忘れて、なにか

○○○○ここに在り!みたいなことをやりたくなるのかもしれないけれど(いや、やりたくなるに決まってる!)そういうのも全てバランスなのだろう。安定した人間関係と、その上に立脚した安定した質と、スケジュールの仕事で、アニメ業界を回したいと思うし、みんなそういう理想を掲げているのだけれど、実践している人ってあの人くらいしか知らないなあ。だから僕はもっとあの人に話を聞くべきなのだし、あの人を師匠として付き人となるしかないんだろう。いや、そうなりたいと思う。ぜひ付き人としてこき使ってください!!

 

誰かと考えを共有できない孤独感と、その孤独感からくる絶望感と、その裏返しとなる慢性的な承認欲求の強さに、多分僕はこれまでの生活を振り回され続けてきた。

今までは別に...って感じで、創作物に浸る快楽は、それに釣り合いが取れるくらいに甘くって安らかなものだった。要するに変わるきっかけがこなかっただけなのだろうけど

あの人に出会ってしまったら、多分その先にもっとさあ、「良い」感じになると思うんだよね、生活も考え方の深度も、隣人も感情的な安定さも。

全体的に何となく「良い」感じにね。

彼女ができました

 これと言って劇的に何か変わったわけでもないし、変に意識してしまっているぶん、以前の方がもっと上手く話せていたのかもしれない。

岩崎愛が、いつか君にも愛しい人が現れて、全然ロマンチックじゃない方法で君を奪いにくるからなんて歌っていたが、そんな風なやり方で僕は彼女を奪ってしまったし、まさにそんな風にしてまったくの他人の人生がぽんっと急に自分の中に入ってくる。

 とても幸せ、幸せだけど、この幸せにアイデンディディを立脚させると、あとで痛い目にあうぞという夜は短し的な童貞くささにとらわれ続けてしまう。

しかし、その時点で僕は彼女のことを信用していないということだし、それはとても不誠実なことなのだ。

 

 模造クリスタルを会社の後輩に進めることができて、とても満たされた気分になる。行きの電車で次に貸す本を読んでいたりする。僕は中学生の頃から模造クリスタルという人物を愛してきたのだ。確かにこれは「愛」だと言えるのだろうが、僕はそういう風にして創作物を愛してやまずに生きてきたのだが、この種の愛は自己充足的なものであり、利他的なものでは消してない。そのように激烈で一方的な愛情しか体験してこなかったんだ。

 

 根拠のない自信とは一体何かと考える。なにか重要な体験に出会った時に根拠のない自信のなさがそれを体験することを阻んでしまう。根拠がないという点ではどちらも同じことなのであり、要は気分の問題なのだ。そういう気持ちは理屈ではないのだ。

 

 未来のことを考えて、彼女を喜ばせたいと思い、彼女に幸せになってもらいたいと思い、彼女にたくさん笑ってほしいと思う。それはとても幸せなことなのだ。極端なことでシニカルに笑っていた僕は、何か新しい考え方をしなくちゃならないんだし、変わらなければならないんだと思う。弱者への共感を人質に取られて、肯定的になれない自分は、どちらも助けられる強さを手に入れなければならないんだと思う。

 

 本当にすごい人に出会って、変な人にも出会って、そういう新しい人との交わりは、自分の固定観念を打破してくれるんだろうし、変わるきっかけを与えてくれたりもする。誰かからの愛情にぶら下て、無限に供給されるコンテンツにぶら下がって生きていくよりかは、幾分そっちの方がましだろう。たとえかつでどれだけ、死にそうに打ちのめされたとしても、そっちの方がましだと心からそう思う。

 

 過去のことと、これからしなきゃいけないことと、彼女のことを考えることがぐちゃぐちゃってなって、どうにもならない。

アニメにしかなかった興味、それだけを一生懸命やるなんてバカげている。

いや大事だが、問題は一生懸命やりすぎていたってことなんだ。 

これから話していくうちに多分、お互いがちょうどいい距離を収束させていくんだろう。