折衷案と折り合いの間の妥協点

エンダーの仕事っつーかそんなふざけたタイトル書いてる場合じゃなくてこのまま惰性で終わらない仕事を続けていたらマジ死ぬと思う、マジで。

 

マジ今日も何故そんなにモチベーション下がらないんですかなんてキチ◯イ見るような目で見られる日々で言い知れない疎外感を感じて優しさのゲージは目減りしていく一方。

 

頑張れば頑張るほど周りの皆との立っている場所の乖離は大きくなっていき、それは喜ぶべきことでもあるのかも知らんけど

 

うっせえよ、死ねよバーカじゃあ誰がこのリテイク直すんだよ、TPリテークなんて作監とおらんからグレーだななんて言ってる場合かボケ!じゃあ安定したスケとリテーク対応やれる作監見つけて来いボケ

 

なんて考えながら一方で、じゃあ俺は何故こんな自分の時間を自棄になった様に切り売りしてまで不毛なリテーク作業を続けてるんだろうという気にもなる。なぜか?わからない。自分の気持ちがわからないから外からのそうした視線をより敏感に感じてしまう。

 

じゃあこのまま俺死んでしまうと思って、深夜一人で孤独に直して死ぬほど辛い気持ちになってもへたれない死にそうな気分に殺されないための文脈と覚悟が切実に欲しくなる。俺の精神全部が生きるために全力で欲している。

 

愛情を欲しそうな目で見て今まではその愛情に依存して、愛情があるからなんとかやっていけるって思っていたしそうした自堕落な生活から抜け出せないでいたけれど、本当の意味で一人で全部決めてなんとかやってく強さを欲して来たしそれを得るきっかけが欲しかった、本当は。

強くなりたい、そして金を稼いで自由になりたい、普段の生活が欲しい、日常が欲しい、絵の能力を上げて自由になりたい、自由になって絵が描きたい、

 

不毛なリテークを続けるのはこの不毛な状況をコントロールしたいからだ。解き明かして、失敗している点をクリティカルに洗い出して、俺の目の前から二度と根絶したいからだ。そのためにはどうしようもなさの渦中、その一番しょうもない、鈍臭い、不毛な場所へ飛び込んでく必要があるからだ。別に、リテーク受けなければいいじゃん、そのための大義名分もちゃんと、それこそちゃんとしすぎるほどに用意してくれていたわけだし、LO取りゃいいじゃん、7時半に帰って絵描きゃいいじゃん、でもそれをしない、それをすると、本当に目を背けたいところから目を背けてしまい問題の全貌が把握できなくなるからだ、同じ過ちの渦中に放り出されて、目と耳を紡いで縮こまるしかできなくなるからだ。ふざけんな、そんなことってあるか、この繰り返されて来た不毛さを自分の中だけでもいいから終わらせたいんだ、怒りによって増幅された死ぬほど高い圧倒的なキャパを持ってしれっと軽〜く終わらせてしれっとloの直しをやってる、これがやりたいんだよ俺は

エンダーの仕事

仕事は終わるもの

 

いや、終わらせなければ終わらない、

 

一見トートロジーのように思えるその状況、「終わらせられる者」でなければ終わらない仕事。

 

 

そう私はエンダー、全てをEND "終わらせ" 全てを———無に帰すER。 

"E"  "N"  "D"  "E"  "R"

それが私に与えられた、不名誉な呼び名。

 

 

 

 

モニタールームは拍手喝采で、泣き出す者までいる。まばらに明滅するその画面には、開かれたファイルサーバー5と、その中にある提出用フォルダ。

上から数えてきっちり35カット、psdデータの整列。

何かがおかしい、異変に気付く僕、喜びたいのはこちらの方なのに、何か異様な雰囲気だ。

戦闘を終え敏感になった本能がそう訴えかける。頭の中で、僕の頭の中だけに、敵が攻めてきた時に流れる、もう何度聞いたかわからないうざったい緊急アラートが鳴り始める。

「何をそんなに...喜んでいるんだ!」気付くと叫んでいた。

「僕はゲームをやっていただけじゃないか、原画試験というゲームを!試験に受かるか受からないか...そのゲームを!このゲームに勝てば僕らは晴れて原画の道に...」

「もうその必要はないのだよ、エンダー。」

見たこともない老人が、やけにはっきりとした口調で喋る。

「君は長いこと、実際のゲームをやってきたんだ、実際の——————現実にある、現実そのものをね。

「まさか————————————

僕は言葉を失う。老人が言ってることは理解不能だ。

「使うっていうのか?これを?僕の描いたレイアウトを?放送するっていうのか!?

ウソだ!だってこれはゲームだって、ゲームだって...言ったじゃないか!原画試験だって言ったじゃないか!」

「エンダー」

不思議と落ち着いているその声の主は、深い感動をたたえた調子で、言い含めるように喋り出す。」

「騙して悪かった。しかしこの、未成熟な承認欲求を抱えた君を、実戦で使うわけには行かなかったのだよ。実際の原画作業だと知ったら君は、描きたい絵と、描ける絵との間のギャップで吐くほど悩み、苦しみ、少し褒められただけで過剰に舞い上がり、けなされると必要以上に落ち込み、鼻から使い物にならなかっただろう。」

「だって、そんな——————!、じゃあ!僕らが殺した奴らは...!

「そう、バガー"侵略者"だ。君の心を侵略して、絵を描けなくしてしまう奴らだ。」

「僕は...彼等を殺したのか....!!!」

「そう、殺した。殺さざるを得なかった。人類が、なにより君たちが——————生き残るためにもね。」

 

 

 

 

信じもしないが判断も下されない段階

 コージィ城倉という人のチェイサーという漫画が面白い。

試しに2巻だけgeoで借りてみて、面白かったのでそのまま深夜のゲオに戻り、隣の喫茶店で最新の4巻まで読んでしまう始末。(これは快楽に引っ張られていると言えるのだろうか?自制しようと思うのだけれど、こういう人の生活から外れたオタク的な興味はどこまでが肯定されるべきなのだろうか?)

なんてったって絵がいい。出てくる人物は男臭い主人公に漫画編集者達しかいないのだが、丸っこく柔らかそうな、どことなく手塚治虫に似ているタッチで描かれていて、ごくたま〜に出てくる女の子もちゃんと可愛い。背景と人物に同じくらいの興味を払って描かれていて、この人の描く世界は安定して、信用できる絵の世界だと幸せになる。

 1話を読んで、手塚治虫の野次馬的な挿話に興味を惹かれ、この感じが全話続けばいいのになと思っていたらこの漫画はそもそもそういう漫画だったし、海徳光市氏は実在しないらしい(笑 昔の漫画業界事情はこうだったのかという面白みもあるし、主人公が手塚治虫に嫉妬し口では認めないと言いながら、その真似を続けるのをやめることができない愚かしさはどことなくアオイホノオに通ずるものがある。

 問題はその愚かしさにあるのだ。物心ついた頃からこの欲望にずっと悩まされ続けているのだし、だからこそ今、まさに、この漫画を読むのがこんなに面白いんだろう。自分の問題意識とつながっているからだ。

 自分にとっての創作物とはその問題意識を持った登場人物に共感を得ながら、それでもコマの中で客観視し、その問題意識そのものを客観的に捉えられるようにするためのもので、だからこそ、大衆の暇をつぶすために作られたキャッチーで下品な物語類や、売れた後に出てくる似たような後追い企画ものに苦々しい、受け入れられなさを感じるのだ。「チェイサー」での注目すべき点はその手塚治虫氏の「創作に取り憑かれた狂人」ぶりであり、「だれもやったことのない、前人未到のことがしたい」という底の見えない欲望の恐ろしさである。ここまで何かを作り出したいと思う狂気(情熱とかやる気とか、あえて良い風には書かない。)とは何なのだろう?だれが得をするのだろう?しかし当の手塚治虫はその狂気に犯され続けながら驚異的な物量の仕事をこなしてゆき、しかし世間の評判は移ろい易く、アトムの視聴率は最終回を目前に右肩下がりになり、作風が暗いなどと揶揄されるようになる。手塚治虫の芸術性が過度なリテイクを乱発したり、漫画との掛け持ちでアトムの動画までやっているせいで遅刻して、現場のスタッフに怒られたりしている。本当に、誰が得をするのだろう?

仕事量に比例して、幸福度が増えていくのならまだしも、何かを作りたい、作らなきゃ死んでしまうという個人のエゴは、どこまでいっても個人のそれである。アトムのグッズが増えて、子供達を笑顔にさせた、明治製菓の利益が上がった、リミテッドアニメーションを世界で初めて開発した。そんなことと、実生活の中での幸福度は、どうすれば釣り合いが取れるのだろう?どこまで新しいことをやり遂げたって、その結果に担保されない人間関係を築かなければ、どこまで行ったって孤独のままである。

 

 夜に寝ないと理性が弱くなるために、感情的になってしまう自分なのだけれど、

Loが終わらなくって夜中に残って一人で描いていた時に、とんでもない孤独感を感じたことがあった。僕はあの感覚が怖いです。なにか驚異的な達成と引き換えになったとしても、全く釣り合いが取れるように思えません。だから、なにか創作をする際にも、となりに誰かがいてくれなければできないように僕の脳みそはできていて、いままでは、かといって、一人になりたかったり、なにか大きなことを達成しようとしたいという「発作」(作中では、「悪いクセ」)を起こしたりしていたけれど、チェイサーの手塚治虫のあり方を見ていて、そういうのって、全てバランスなんだなと思うようになった。

 これはもしかすると、今がその残って描いてたLoを上げきって、一仕事終わった今だから言えることなのかもしれないし、またしばらくすると孤独の痛みを忘れて、なにか

○○○○ここに在り!みたいなことをやりたくなるのかもしれないけれど(いや、やりたくなるに決まってる!)そういうのも全てバランスなのだろう。安定した人間関係と、その上に立脚した安定した質と、スケジュールの仕事で、アニメ業界を回したいと思うし、みんなそういう理想を掲げているのだけれど、実践している人ってあの人くらいしか知らないなあ。だから僕はもっとあの人に話を聞くべきなのだし、あの人を師匠として付き人となるしかないんだろう。いや、そうなりたいと思う。ぜひ付き人としてこき使ってください!!

 

誰かと考えを共有できない孤独感と、その孤独感からくる絶望感と、その裏返しとなる慢性的な承認欲求の強さに、多分僕はこれまでの生活を振り回され続けてきた。

今までは別に...って感じで、創作物に浸る快楽は、それに釣り合いが取れるくらいに甘くって安らかなものだった。要するに変わるきっかけがこなかっただけなのだろうけど

あの人に出会ってしまったら、多分その先にもっとさあ、「良い」感じになると思うんだよね、生活も考え方の深度も、隣人も感情的な安定さも。

全体的に何となく「良い」感じにね。

彼女ができました

 これと言って劇的に何か変わったわけでもないし、変に意識してしまっているぶん、以前の方がもっと上手く話せていたのかもしれない。

岩崎愛が、いつか君にも愛しい人が現れて、全然ロマンチックじゃない方法で君を奪いにくるからなんて歌っていたが、そんな風なやり方で僕は彼女を奪ってしまったし、まさにそんな風にしてまったくの他人の人生がぽんっと急に自分の中に入ってくる。

 とても幸せ、幸せだけど、この幸せにアイデンディディを立脚させると、あとで痛い目にあうぞという夜は短し的な童貞くささにとらわれ続けてしまう。

しかし、その時点で僕は彼女のことを信用していないということだし、それはとても不誠実なことなのだ。

 

 模造クリスタルを会社の後輩に進めることができて、とても満たされた気分になる。行きの電車で次に貸す本を読んでいたりする。僕は中学生の頃から模造クリスタルという人物を愛してきたのだ。確かにこれは「愛」だと言えるのだろうが、僕はそういう風にして創作物を愛してやまずに生きてきたのだが、この種の愛は自己充足的なものであり、利他的なものでは消してない。そのように激烈で一方的な愛情しか体験してこなかったんだ。

 

 根拠のない自信とは一体何かと考える。なにか重要な体験に出会った時に根拠のない自信のなさがそれを体験することを阻んでしまう。根拠がないという点ではどちらも同じことなのであり、要は気分の問題なのだ。そういう気持ちは理屈ではないのだ。

 

 未来のことを考えて、彼女を喜ばせたいと思い、彼女に幸せになってもらいたいと思い、彼女にたくさん笑ってほしいと思う。それはとても幸せなことなのだ。極端なことでシニカルに笑っていた僕は、何か新しい考え方をしなくちゃならないんだし、変わらなければならないんだと思う。弱者への共感を人質に取られて、肯定的になれない自分は、どちらも助けられる強さを手に入れなければならないんだと思う。

 

 本当にすごい人に出会って、変な人にも出会って、そういう新しい人との交わりは、自分の固定観念を打破してくれるんだろうし、変わるきっかけを与えてくれたりもする。誰かからの愛情にぶら下て、無限に供給されるコンテンツにぶら下がって生きていくよりかは、幾分そっちの方がましだろう。たとえかつでどれだけ、死にそうに打ちのめされたとしても、そっちの方がましだと心からそう思う。

 

 過去のことと、これからしなきゃいけないことと、彼女のことを考えることがぐちゃぐちゃってなって、どうにもならない。

アニメにしかなかった興味、それだけを一生懸命やるなんてバカげている。

いや大事だが、問題は一生懸命やりすぎていたってことなんだ。 

これから話していくうちに多分、お互いがちょうどいい距離を収束させていくんだろう。

あしたからは利己的に生きたい

昨日は死ぬほど絵を描いて、今日も死ぬほど絵を描いて怒りの7時半帰宅をかまして、

帰ってくるともう何も出来ない気分になっている。帰りの電車の中から怪しかった、もっと言えば会社の扉をくぐる時さえギリギリだった。

一体この疲労はなんなんだ!?と、シャワーを浴びている間に一人で怒っている。怒りのエネルギーで、無気力がどうにか消し飛んでこのブログが書けている。

何かしたい、何かしていないと落ち着かない、何か仕事をしていないと、目の前で走っている人たちに追いつけない、とんでもなく長い時間を失った。その時間を取り戻すには、その倍書かねばとうていおいつけないという前時代の体育会系的欲望に支配されていて、これの考えはまあ長短あれど、少なくとも最短で絵が上手くはなりそうでしばらくはこのやり方にのっかるかと納得する。

 

 

 仕事が詰まってはいるが、ちょっとした隙に上でタバコなど吸っていると、とあるタイトルの総作監の人などがやってきて話をしたりする。藤田和日郎のはなしでひとしきり盛り上がり、だんだんと僕は焦り始める。この人の方が知識もファン歴も上なのだ。

僕の薄っぺらい知識がどうかこの人にばれませんように、と考えているそぶりもばれないように、なんとか自分の知っている領域へ話を持っていく。少ないかもしれないけれど、それは中学の僕が本当に感動したことなのだ。それが功を奏したのかなんとかその場は体良くおさまって、あとで黒博物館を読み直して、うしおととらを読まないと思う。(藤田和日郎ファンのくせに未だうしおととらを読んだことがないのだ!)

 違うタイトルと関わるようになってからこういったことが多い。皆、知識の塊なのだ。体系化された知識が自分の経験と混ざり合って一種の世界観を形成しているのだ。そういう人の話を聞くのはとても楽しいし、幸福度も生命力も上がるし、そういう人たちの一員になりたいと思う。リテイクばかりやっていた例のやつとは、根本的なところで、致命的な違いがあり、それは自分の選択を決定的に規定している。進むべき道はこちら側なのだ。

 

 会社に数少ない円満退社した制作さんがやってきて、昔の仲間と話しているのを偶然見つける。ここでの仕事を全うして、もっと大きい、昔からあるとある会社へ移ったのだ。化け物ばかりで楽しいですよと笑うその顔に、少しばかり嫉妬する。なぜ俺はこんなところでこんなことをやっているのだろうと軽く凹む。毎度のことでさすがに慣れたが、それでもまだ痛みは感じるんだし、別の可能性を探し求める様な不安定さが、まだ残っていたことをと確認する。

しかし、何度考えて見ても、ぐるぐる回って考えはいつも同じところへ落ち着くのだ。

今いる場所が一番良い。早々にやめてフリーになってたとしても、上京せずに大阪のスタジオに入ったとしても、結局僕は絵が上手くなりたいと行っておきながらそれ以外の社会性とか、経験値とか色々と面倒くさい事が気になってしまって仕方がないのだ。絵だけ上手くなっても意味がないし、僕の精神は生まれつき、それだけでは満足されない様になっているのだ。だからこそ、めいめいひとしきり焦って変な試行錯誤を繰り返した後、考えは一周して周り、今の場所が一番良いという結論にいつも落ち着く。

多分少し足りないのは、強かさとずるさ。最近ちょっとだけずるくなったかな。

利己的に物を考えられる様になったかな。 

 

 何十人もいれば、かなり少ない割合で、1人か2人は、粛々と通常業務をこなしながら、自分のつきたい役職、やりたいことをやってのけて、さっさといなくなってしまう人たちがいる。彼らは恐ろしく有能で、俺はそれに強烈な羨望と嫉妬を覚えていて、けれども彼らは俺の大事にしている、精神的なものの礎になっている、何かを簡単に捨ててしまえる様に思えて、俺はああは慣れないなと毎回思い、しかし彼らと同じくらい、自分は何かこの世界に気づいているとも思う。もう毎回のことだ、毎回同じことを何度も繰り返し悩んで、けれどもその悩みも最終的には日常に回収されていく。ああ今日も良い仕事をしたなとここ2日くらい思っていて、結局はそれの積み重ねでしかないのだ。

 絵が上手いのになんで創作個人でやんないんですかって新人が行ってきたら、

「アニメ」が作りたいんであって「自分の絵」を描きたいワケでないんだよ、と軽くいなそうと、絵を描きながらしめしめと考える。そんなところでマジになってしまっても何にも仕方がない。

 

宇宙に興味あるんすよ、と、言っておきながら、最近ネットで読んだ記事「宇宙誕生の頃の、最初の星の放出した電波を検出した」のすごさを上手く説明できなくて凹む。

何か話そうとすると、固有名もソースも頭の中に残っていないことに気づいてかなりゾッとする。Googleに記憶が食われていることを知って、もう少し体系的な知識をつけねばと焦る。全く論理とは合わない性格だよなと前々から思っていたがこれは相当だぞ。

 

 

明日からは利己的に生きたい。毎日7時半には帰りたい。リテイク動検ばっかやらずレイアウトを描きたい。締め切りばっか守りたくない。自己管理は大事だが、良い絵はそんなところからは生まれないと、昔から染みついている考えはなかなか抜けない。マウンティングすんのに必死だなと、俺の絵の上に赤でグチャグチャ書きなぐったことを絶対に許さない。

半年ROMってろ

 2日ぶりに家へ戻ってきて16時間も寝てしまって、また日曜日が消滅する。

健康保険証の更新と、確定申告の書類を取りに行かないといけないんだけどなあ。

昨日、終電に乗って帰るか、始発まで作業して終わらせてから帰るかの選択に迫られた時、しかしそれは残って作業して正解だったんじゃないかと思う。

 

 23時に起きて、夢の中で小平へ向かっていだはずなのにと思い出す。小平へ向かう途中に屋上から迷い込んだ学校のような施設で、なぜか屋上へと迷い込んでしまったため、そこから逃げ出すために隠れながら階段を一段一段駆け下りて、1階の職員室の前の非常通路のような場所へ出た時に一人の職員に見つかって、ふと見つけた出口のようなところへ疾走していく最中に目がさめて、しばらく、現実の暗い部屋でその夢に見た学校のことに思いふける。黒くていかにも硬そうな木でできたその校舎は、きとこれまで何千人も人が活動してきたであろう歴史を感じさせるようにあちこちすり減って丸くなって、適度に埃がたまっていて、逃げる瞬間にふと見やった職員室の入口の窓には、たくさんの先生たちのシルエットがうごめいて、朝特有の新鮮なエネルギーに満ちた雑多な声が聞こえるので、ああこの名前も知らない、存在していない学校の中でもまた1日が始まろうとしているんだと思う。