あしたからは利己的に生きたい

昨日は死ぬほど絵を描いて、今日も死ぬほど絵を描いて怒りの7時半帰宅をかまして、

帰ってくるともう何も出来ない気分になっている。帰りの電車の中から怪しかった、もっと言えば会社の扉をくぐる時さえギリギリだった。

一体この疲労はなんなんだ!?と、シャワーを浴びている間に一人で怒っている。怒りのエネルギーで、無気力がどうにか消し飛んでこのブログが書けている。

何かしたい、何かしていないと落ち着かない、何か仕事をしていないと、目の前で走っている人たちに追いつけない、とんでもなく長い時間を失った。その時間を取り戻すには、その倍書かねばとうていおいつけないという前時代の体育会系的欲望に支配されていて、これの考えはまあ長短あれど、少なくとも最短で絵が上手くはなりそうでしばらくはこのやり方にのっかるかと納得する。

 

 

 仕事が詰まってはいるが、ちょっとした隙に上でタバコなど吸っていると、とあるタイトルの総作監の人などがやってきて話をしたりする。藤田和日郎のはなしでひとしきり盛り上がり、だんだんと僕は焦り始める。この人の方が知識もファン歴も上なのだ。

僕の薄っぺらい知識がどうかこの人にばれませんように、と考えているそぶりもばれないように、なんとか自分の知っている領域へ話を持っていく。少ないかもしれないけれど、それは中学の僕が本当に感動したことなのだ。それが功を奏したのかなんとかその場は体良くおさまって、あとで黒博物館を読み直して、うしおととらを読まないと思う。(藤田和日郎ファンのくせに未だうしおととらを読んだことがないのだ!)

 違うタイトルと関わるようになってからこういったことが多い。皆、知識の塊なのだ。体系化された知識が自分の経験と混ざり合って一種の世界観を形成しているのだ。そういう人の話を聞くのはとても楽しいし、幸福度も生命力も上がるし、そういう人たちの一員になりたいと思う。リテイクばかりやっていた例のやつとは、根本的なところで、致命的な違いがあり、それは自分の選択を決定的に規定している。進むべき道はこちら側なのだ。

 

 会社に数少ない円満退社した制作さんがやってきて、昔の仲間と話しているのを偶然見つける。ここでの仕事を全うして、もっと大きい、昔からあるとある会社へ移ったのだ。化け物ばかりで楽しいですよと笑うその顔に、少しばかり嫉妬する。なぜ俺はこんなところでこんなことをやっているのだろうと軽く凹む。毎度のことでさすがに慣れたが、それでもまだ痛みは感じるんだし、別の可能性を探し求める様な不安定さが、まだ残っていたことをと確認する。

しかし、何度考えて見ても、ぐるぐる回って考えはいつも同じところへ落ち着くのだ。

今いる場所が一番良い。早々にやめてフリーになってたとしても、上京せずに大阪のスタジオに入ったとしても、結局僕は絵が上手くなりたいと行っておきながらそれ以外の社会性とか、経験値とか色々と面倒くさい事が気になってしまって仕方がないのだ。絵だけ上手くなっても意味がないし、僕の精神は生まれつき、それだけでは満足されない様になっているのだ。だからこそ、めいめいひとしきり焦って変な試行錯誤を繰り返した後、考えは一周して周り、今の場所が一番良いという結論にいつも落ち着く。

多分少し足りないのは、強かさとずるさ。最近ちょっとだけずるくなったかな。

利己的に物を考えられる様になったかな。 

 

 何十人もいれば、かなり少ない割合で、1人か2人は、粛々と通常業務をこなしながら、自分のつきたい役職、やりたいことをやってのけて、さっさといなくなってしまう人たちがいる。彼らは恐ろしく有能で、俺はそれに強烈な羨望と嫉妬を覚えていて、けれども彼らは俺の大事にしている、精神的なものの礎になっている、何かを簡単に捨ててしまえる様に思えて、俺はああは慣れないなと毎回思い、しかし彼らと同じくらい、自分は何かこの世界に気づいているとも思う。もう毎回のことだ、毎回同じことを何度も繰り返し悩んで、けれどもその悩みも最終的には日常に回収されていく。ああ今日も良い仕事をしたなとここ2日くらい思っていて、結局はそれの積み重ねでしかないのだ。

 絵が上手いのになんで創作個人でやんないんですかって新人が行ってきたら、

「アニメ」が作りたいんであって「自分の絵」を描きたいワケでないんだよ、と軽くいなそうと、絵を描きながらしめしめと考える。そんなところでマジになってしまっても何にも仕方がない。

 

宇宙に興味あるんすよ、と、言っておきながら、最近ネットで読んだ記事「宇宙誕生の頃の、最初の星の放出した電波を検出した」のすごさを上手く説明できなくて凹む。

何か話そうとすると、固有名もソースも頭の中に残っていないことに気づいてかなりゾッとする。Googleに記憶が食われていることを知って、もう少し体系的な知識をつけねばと焦る。全く論理とは合わない性格だよなと前々から思っていたがこれは相当だぞ。

 

 

明日からは利己的に生きたい。毎日7時半には帰りたい。リテイク動検ばっかやらずレイアウトを描きたい。締め切りばっか守りたくない。自己管理は大事だが、良い絵はそんなところからは生まれないと、昔から染みついている考えはなかなか抜けない。マウンティングすんのに必死だなと、俺の絵の上に赤でグチャグチャ書きなぐったことを絶対に許さない。

半年ROMってろ

 2日ぶりに家へ戻ってきて16時間も寝てしまって、また日曜日が消滅する。

健康保険証の更新と、確定申告の書類を取りに行かないといけないんだけどなあ。

昨日、終電に乗って帰るか、始発まで作業して終わらせてから帰るかの選択に迫られた時、しかしそれは残って作業して正解だったんじゃないかと思う。

 

 23時に起きて、夢の中で小平へ向かっていだはずなのにと思い出す。小平へ向かう途中に屋上から迷い込んだ学校のような施設で、なぜか屋上へと迷い込んでしまったため、そこから逃げ出すために隠れながら階段を一段一段駆け下りて、1階の職員室の前の非常通路のような場所へ出た時に一人の職員に見つかって、ふと見つけた出口のようなところへ疾走していく最中に目がさめて、しばらく、現実の暗い部屋でその夢に見た学校のことに思いふける。黒くていかにも硬そうな木でできたその校舎は、きとこれまで何千人も人が活動してきたであろう歴史を感じさせるようにあちこちすり減って丸くなって、適度に埃がたまっていて、逃げる瞬間にふと見やった職員室の入口の窓には、たくさんの先生たちのシルエットがうごめいて、朝特有の新鮮なエネルギーに満ちた雑多な声が聞こえるので、ああこの名前も知らない、存在していない学校の中でもまた1日が始まろうとしているんだと思う。

妄想かくあるべし

 帰り道茫然自失で歩いていて、この状況を打開するには、妄想しかないとの結論に至る。いつの間にやら家についている、どうやってたどり着いたのか覚えていない。

最近の生活は結構なものだ。仕事は楽しいし(相変わらず量は多いけれども)、休みには何らかの創作物に触れてもいる、一人の時間はめっきり減ったが、少なからずの損失あれども、ある意味ではいい方向に働いているように思う。

寝る前に妄想、電車の中で妄想、絵を描いている時も妄想、かくあるべし。このような閉塞した状況を打開するには、理性を保ったまま、別世界へ旅立つ必要があるのだ。

現実世界との紐をつないで、フワフワと頭の中をたゆたう必要があるのだ。

 

 グレイテスト・ショーマンと言う映画を見る。ララランドの後釜狙いの、完全に商売を目的として作ったような映画だとの感想。作り手側の、この類の思惑を嗅ぎとってしまうと、おそらく自分の偏見もあるのだろうが、一度そうだと思ってしまうととたんに辟易して、全てをその色眼鏡で見てしまう。106分という短さも、回転数を上げることを狙っているとしか思えなくなる。冒頭のつかみの構成もララランドがよぎる。

ああ言う人間がいるんだよなあ、と、PTバーナム演じるヒュー・ジャックマンを見て思う。限りなく、何かを成し遂げることにしか興味がない奴。

その問題は依然として僕の中にあって、しかしさすがに昔ほどは振り回されない。ちゃんとああ言う人間と付き合う時の、落とし所は見つけたつもりだ。

 

 羊の木と言う映画もまさにそうだとラジオで宇多丸が言っていて俄然興味が湧いてくる。

受け入れることのできる領域をはるかに越境してくる、圧倒的な他者(殺人鬼)

このヒリヒリした感覚とその答えを、是非とも現実へ持って帰ろう。

なんせ「衝撃と希望のラスト」だからな

 

 ミシェル・ウェルベック「闘争領域の拡大」と言う本を、また憂鬱でイライラしていた日曜日に、新宿のジュンク堂で見つけて買って読む。現実世界の非道い物、見たくない物、悲劇的な物ばかりが目についてしまう。しかし、日常生活をそつなく過ごすだけの、些細なルールはこなせるだけの社会性をかろうじて備えてはいる。そんなくたびれた生活の、限界を迎えた話。スルスルと文章が水のように入ってきて、ああそうだ、自分はこう思っていたんだなんて思う。この人の世界を捉えるセンスは素晴らしく心地の良いもので、読み終えた矢先、別の本をamazonで注文する。頭の中の本棚の、個人的ベスト作家のラベルがしてある棚の中に、舞城王太郎平野啓一郎村上龍と並べて、ウェルベックをそっと仕舞って一人喜びに浸る。

 

 週刊少年ジャンプで連載していたフルドライブと言う漫画がついに終わってしまった。おっそろしく絵がうまくって、ちゃんと熱血少年漫画していたのに、寂しい限り。

赤毛のアチョーという同じ作者の読み切りを大学の頃にジャンプで見つけて一時期その絵ばかり描いていたのだ。何か強烈なシンパシーを感じる、感性が似ている、とても好きな作者だった。

しかしジャンプは、ある種のPTバーナムのような人物を求めているのだろうよ。はねバドの作者の時も感じたが。「分母を広げる」ことで切り捨てられてしまう何かに、強烈に惹かれるのだと思う。

 

創作物について色々書いたが、別に創作物に浸ることが妄想じゃなくって

なんか自分の欲望とか本能的な欲求を掘り下げて、体系化させてちゃんと他人に話せるようにする過程の事を言っているのであって。

もうすぐ寝るけど、寝た時に何か空想をしながら寝ようとしたのです。

 

 

自分の身に起きた苦労話や鬱憤を、あんまりペラペラと他の人に喋るんじゃないぞ

 会社の人が喫煙所で吸っていた電子タバコが、真っ白の別物に変わっていた。どうやら新しいのに変えたらしい。プルームテックと言うのをアイコスに変更したようだ。タバコはよく吸っているが、別に電子タバコに詳しいわけではない僕は、「こっちの方がタバコ吸っている感じが出るんですよ」と言われ、ふうんそう言うものかと頷く。

 そうしている間にも頭の隅ではこの後やる動画のことを考えていて、別にとりたてて、電子タバコの話がしたかった訳じゃないんだなと思う。そうして僕の傍らで「普通に」会話している先輩方を見て、ああ言う風になりたいものだと思う。

 

 

 僕は余計なことを、思っても見ないことを、相手に合わせて喋りすぎているんではないかと思う。本当に喋りたいと思ったこと、それが自らの、内発的な衝動によって湧き上がるものだけしゃべろうと決めてから、話したいことが何もないことに気づく。

それは今の仕事が全く楽しいからであって、これを続けて行った先に何か掴めそうなものが見えるからであって、要するにそれが今自分の一番したいことなのだ。相手に合わせておためごかしの会話を続けることではない。

 

 

何だかそうやって、自分が自分に課していた色々な束縛を、全力で回避しようとする時期なだけなのだ。全くもって思春期のようでうんざりするが、流行病のようなもので、1月もすればまた別なものに興味が移っている、そんな予感がする。

 

そんなわけで、最近はとんと映画を見ていなかったので見てみる。

ショーンオブザデッド、ホット・ファズ、エイリアン4、映画シーンのスケッチもする。それをするだけで日曜が終わる、とても楽しい。

 

そんな毎日。

 

 

暇な時間が嫌いだ

お金を取れない絵しか描けない、何者でもない自分が嫌いだ。

そんな何者でもない自分を直視してしまう、暇な時間が嫌いだ。

ぽってりと空白の時間ができると、途端に憂鬱になってしまう。

暇になるくらいなら、何か仕事を入れておいた方が良い。

何かをしている間だけが、一番落ち着ける。

 

●●●●が終わらなくって、netflixで「このサイテーな世界の終わり」というドラマを最後まで見てしまう。不安定なティーンエイジャーの言動の全てが実に心地よく心に入ってくる。まだ何者でもない彼ら、何かに対して苛立ちを感じつつも、その対象を見つけ出せない彼らの破壊的な行動は支離滅裂に見えて、やがて何らかの秩序を見出したかのように収束してゆく。彼らは世界の大きさがわからないから、無秩序に周りの壁をノックして回っているだけなのだ。試行回数が上限に達すると、彼らはその裏にある社会のシステムを実感として悟り、自分たちの向かっていく方向を収束させてゆく。

 

 明るくなってきた空を眺めながら、近所のコンビニに飯を買いに行った傍、まだ太陽も登っていない暗いうちからバス停の前で並んでいる会社員たちが目に入りやりきれない気分になる。彼らの生活は、僕には全く合わない。何かを作ることでしか、あのドラマのティーンエイジャーのように脆く移ろいやすいこの不安定な衝動を、収めることができない。そう思いながら、しかし自分も数時間もすれば同じようにして会社へ向かわなければならないと思う。

本当に、何かを作りたいと思った。まだ何者でもない自分を呪いながら

何かを作ることで、何かが良い方向へ向かっていくような気がした。