5月4日

陽が落ちるのが早い。1日の速さを実感しながら生きている。

 

不安というのが一つの大きな問題点となっていて、これにより依存が発生し、自分の生活をより非生産的なものにしてゆく。

その不安感を満たす刹那的なものに救われた気分になって、それに対して意味を見出してしまうからだ。

人間は不安を消すことはできないようになっているらしい、感情というものは原理的にそういう仕組みで成り立っているらしいので、その大きく重い鎖を纏いながら歩いていくことが重要になる。だからこそ厄介な代物な訳。

その代わりに、疲労というものは感じずに生活している。

おかげさまで。疲労感というものこれまたとりたてて厄介な訳。

だから疲労感を癒すための刹那的な快楽に振り回されることはない。

 

 

正しさを断定することについて考えた。

これが実に難しい。なぜならたいてい現実で起こる諸問題は、その表面と裏面のどちらの意見も汲み取ることができてしまい、結果的にそれらの矛盾を自分の中で抱え込みながら曖昧にやり過ごしていくことになるからだ。どちらか一つが正しくて、その一方は間違っている、なんてことは滅多になくて、それら意見の対立は当人にとってはどちら側も自分が正しいと感じていて、そしておおよその場合どちらの言い分も納得できる。どちらか一方が絶対的だという「確信」を感じられるのは滅多にない。

だからこそ、正しさの断定は時に暴力に変わり、否定される側に対し時に暴力的に働く。

人間は黒と白両方の価値観を頭の中に混在させたままどちらが正しいか考え続けるようにできている。

 

そして確信が持てないまま悩み続ける心は不安定であり、不安定になった心は安らげるものを必要とする。

(しかしそのための手段が初めに挙げた、断定することだったりするのかも。)

・何かを断定すること    他には、

・誰かを蹴落とすこと、自分より能力が低いと証明すること  

・同じ価値観の仲間を探すこと

 

.安易な方法で言えば新興宗教に入信したり酔っ払ってそうした悩みを考えなくしたり、あとは普段の価値観や関係性をその瞬間だけ無効化させる祝祭空間に身を置く等...

 

 

 

不安定なものはたいてい安定化しようとするから、この種の不安感を純粋に感続けながら生活を送ることは結構難しい。結局鮮度は落ちていって、初め決めた矜持は何処へやら、誰かを嘲笑したり皮肉ったり、心が通じ合う人がいないと嘆いて見せたりすることになる。はじめに決めた理想よりももっと現実的でスピーディな、不安をおさめる具体策へと収斂してゆく。

 

その結果、何が起こるか。理想はそのまま頭の中に残っているから、自分のとってしまった行動と、とるべき理想の行動とのギャップでまた心は荒んで不安定になってゆく。

 

この種の文脈をとっておくことは存外に難しいぞ、みなさんどうしていらっしゃるのかしら。

 

 

価値観の合わない相手には言外に見下すことで不安を安定化させることを図ってきた俺はまさにこの種の矛盾に苦しめられてきた訳だ。

 

しかしその上で、絵を描くことというのは自分の正しいと思う価値観、安らげると思う価値観を相手に向けて「断定」することになる。この種の問題に拘泥していると、最終的には何も描けなくなってしまうことになる。

(「何も描けない」はないにせよ、それが無意識に働いて、想像力のストッパーになっていうということは考えられる話だ。)

 

普段の生活を大事にしようと思った。それが安定化をもたらす堅牢な土壌の役目を果たしてくれていたはず。女性はそのへん強いよね、と思った。

 

しかし、こういう風なことをぼんやりと考えていると、アニメは楽しい!絵を描くのって楽しい!って無邪気さがいかに一面的な考え方かってのがわかるよなぁ...

アニメを作る上で半分くらいは、こうした価値観の違いによる苦しみを感じ続けなければならない訳で。純粋な楽しさってのはもう半分くらい。

 

不安を感じていると心の中に相手のことを受け入れるだけのスペースが取れないので狭隘になってしまって困る。

 

5月3日

skypeできる?

何で電話出てくれないの?

 

...は?知るかボケ?あ〜あ、責任から逃れた生活を送っていたはずなのに、なんでこう日常生活を送っているとプカプカと現れてくるんだろう...

 

そうして罪悪感に苛まれながら一方でその罪悪感を鬱陶しいとも感じ、そんなものに囚われているから今までものが作れなかったんだと思う。こんなものに精神を依存させすぎてしまっているから、人間関係をうまく立ち回れないのだ。過剰な分を抑制したいと思い、一方で人との繋がりを自分の欲望よりも軽視するサイコな人間になることに恐れを抱いたりする。

そうして、それが単にアスペとかサイコパスの一言で片付けられないよう、反論のための理屈を頭の中で組み立てようとして見たりする。

 

大逆転裁判を続けて、4章が終わる。動く絵のついて、インタラクティブな性質を持った小説を読んでいる気分、巧舟氏は関わっていないと思っていたがむしろこちらの方には関わっていて、6の方は無関係だった訳だ。

 

●ルル子を見終わって、やはり今石さんは天才だと思う。1巻で全話入っていて謎にパッケージ感があるのでDVDが欲しいなと思う。

どうでもいいけど吉成監督がリトアカでTP修正自分でやっているとインタビューで言ってて、少しやる気が出る。堤尚子氏はリトアカで初めてプロデューサーをやったのか、と、自分の会社と照らし合わせて見る。

 

●社会に対しての無力感は影を潜めている。そもそもが問題意識を感じていないから、何について考えていたのかも思い出せない。昼間、GWで子供や家族連れや犬で賑わう公園をDSに没頭しながら通り抜けて、世間の目を気にしない生活は意外と最高だと思う。

 

フィール・ヤングを書店で買って、紀伊カンナの漫画が載っていないことに少し残念になる。代わりに志村貴子の漫画を読む。絵が少し変わっている。柔らかくなって、より省略された絵になった。そうしてその雑誌に出てくる女性たちのように自分の性別についてナーバスになることについて少し考える。

 

●ルル子のOPをDLしてしまう。絶望的になった時に聞いて無理やり気分を上げている。

絶望に立ち向かうように...等いろいろ考えていたはずなのに、それが過ぎ去ってしまうともう忘れてしまって、男が描けない〜と鉛筆を放り出しだらだらネットをしてしまう。

いかん、気をつけなければ。

 

●GEOで借りたアントマンが見れなかったので、別のDVDと取り替えてもらいに行ったら店員さんがタダ券を一枚くれる。

こういうところに、過剰に気を使ってしまう俺を、もう一人の俺が頭の中で観察する。

ある種の過剰さがあるから、それが逆転した時に冷静になれないのだ。不安の源流は過去の経験に根ざしているわけで、実体として存在しないじゃないか。今、ここにある現象としての会話なら、その不安を頭の中で中和しながら、もっとマシなものにできるはずなのだ。

もっと自然にできるはず。

 

●今のこの自分の感じ方で感じられる安心感が、他人の介入によって阻害され、とても大きな不安を感じる。他人から疎外されるのは怖いものだ、これがおそらくおれが他人と接したくないと感じる原因の全てであるのだろう。

拒絶されるリスク、疎外される可能性がわずかでも存在することが。

俺は俺の思う好きなものをもっと経験したいと思うのは、何かそれがそうした不安感から自分を守る唯一の大きな盾となるからで、自分の進む方向を示す道がより広く太いものに拡張されるような気がするからだ。

 

「ような気がする」というのが意外と重要なのだ。俺の人生はその予感の方向に今まで進んできたのだから。

自分がより安心できると思う方向に向けて。

 

 

●女子中学生がなりたい職業、1位が声優で2位がアニメーターだとかいうどこかから流れてきたネットニュースを見て、サブカルチャーが現実に侵食してきている速度のことを考える。

君の名、とか、ララランド、とか、創作物はより過剰に現実を綺麗に描こうとし、実際にやってみるとそうでもないな、ってことはあるかもしれない。

と、言いつつ絵の練習をしている。自分のその一端を担おうとしているんだけれど、と思う。

 

●ただ生きていくことは意外と簡単なのかもしれない。しかしそこに自分のポリシーとか考え方ってフィルターが入るからこそ事態がややこしくなってくるのだ。ポリシーを無くせば何にもイライラさせられずに生活することができる。しかしこれは生まれつき、自分が何に対して安心を感じるかってことなんだから、無視をしているとだんだん無理が出てくる。

 

 

 

 

 

 

5月2日と吉良吉影に関しての偏愛

なぜ、何もしないままで生きていくことは駄目なんだ?

何も変化しないゆえに、自分を苦悩させる外界からのストレスを全て排除し続けて、自分自身が本当に意味で安らげる風な感覚を感じ続けながら、無為に生きていくことはできないのだろうか。

その一方で、それは無理なことで、不可能なことで、多分実践したら様々な面で摩擦や軋轢や無理が生じ、結果、最も苦痛を生む生き方になるのは目に見えている、

はっきりと、分かっている。

 

吉良吉影になりたい、アイツ生き方に俺は共感するなどとボンヤリと考え続けながら2時間ほど散歩をする。苦痛も痛みも感じていないから、数日前のように差し迫って思考はしない。本当のところ何も考えていなかったのかもしれない。

 

DVDを五枚借りてきた。映画を見ようと思ったのだ。

現場を回すことで抑圧してきた、曖昧なにやにや顔を浮かべて脇に置いてきた、しかし創作をするにはそれが最も大事である自分の本当に好きなものを満足させるために、とりあえずチェック項目をいくつも用意して、消化しようとしてみた。

リードオアダイ、ウェイクアップガールズ、宇宙パトロールルル子ヨスガノソラダンタリアンの書架

臨時収入が入ったので、GEOで逆転裁判4を買ってきた。

金がない、時間がない、明日の仕事のために気を散らせない、飲み会がある、気分が乗らない、これを経験するには2、3日くらいの休みが必要etcetc...

全ての言い訳が満たされた、理想的な環境にいるわけだ今は。

ここでやらないって馬鹿な話はないだろう?

 

起きて描いて寝て、また起きて飯食って描いて寝て、アニメ見て飯食って映画見て描いて寝て、起きて描いて寝て.....

という学生の頃のような荒廃した生活を続けていると、どんどん刺激が単純になってって、無気力なアノミー状態になってくる。

しかし、ここにこそ自分が自由に絵を描けるようになるための問題点が潜んでいるような気がしてならない。

誰かと話したいと思わない、誰かに近づくとまた複雑な問題が発生して、気分が憂鬱になる。そういうところが、つまりは誰か他人と近づきたいと自ら思えないところが、おそらくはそんな巫山戯た状態を作り出しているのだろう。

しかし絵を描くには理性が邪魔で、そう言う状態にならなければならなかったからこそ、俺はここ1年半、必死で周囲の中に自分がいる感覚、いわゆる群像の感覚をつかもうと働いてきたんじゃないのだろうか?

今いる状態の中で、絶望しないで生産的な活動が「自由に」できるようになるために?

 

何だろう、そう考えていくうちに俺は、吉良吉影のようになりたいと思って嘆いた先に、何か違う別のやり方があるような気がしてくる。何か別の、その対立した2つの問題点の間で硬直状態になった結論を打開する、3つ目の解答が眠っているような気がする。

絵が上手くなれば上手くなるだけ、その種の呪いから解放される気がする。

 

何だろう?また明日描いてみるか日記を?

そんで今日と明日、二つの日記を客観的に並べて見て、また最初っから考えるか?

 

この種の社会に対する徹底的な不信感が、カフカの小説というモチーフを介して、一般化される気がするんだけどなあ。

 

 

4月29日

休日前に朝まで飲んでから、16時ぐらいに起きる。

なんか文学的風な日記を書きたいなあと思うが、衝動をそのままぶつけているのでそうならない。

今日からGWだが、まだ土曜日なのでそういう気分にならず、映画に行ける可能性をいろいろと弄びながら実際には行かずloを描いている。

昨日の飲み会の話を頭の中で反芻する。面白かったことを思い出して大声で笑って、辛かったことを思い出して憂鬱になる。

動画ばっかりやっていて、すっかり自分の絵を描くことがなくなってしまった。

「時間がないだけで、描いたらすごいいい絵が描ける」というのがただの言い訳にならないようにじっくり時間をかけて絵を描こうと思う。

 

 

予定されていたんだけど、突然ばーん!と入ってきた空白の時間、まずはここ3ヶ月くらいのことを思い出して、これから進む道を考えてみようと思う。

4月16日

昨日から取り組んでいたloを13カットあげた。

そのまま寝て16時に起きる。

洗濯と片付けと洗い物をして、マクドへ行って飯を食べて、ニトリでテレビ台を買ってきた。これで快適な映画ライフ

早くこないだ買ったマルコムxを見ないと。シングストリートは最高すぎたけどな。

新宿行って21時20分からのララランドを見てくる。

昨日の夢

動画監査の人が血の滲むような修正をして、実際にその人の肘の下に血が滲んで後が付いていて、色々忠告をされたけどよくわからない。誰かに呼び出されて会社から急いで帰る途中、駅でその人と先輩に会う。またうだうだした会話。やっと帰ろうとした後今日のお礼を言い忘れて戻るも、誰かと話していて話しかけづらい。衝立に隠れ機を伺って出て行くと、ちょうど見えない位置に移動されている。気づいていて避けられてるんじゃないかしら。諦めて帰ろうとする。最寄りの路線を探すのにボードを見ながら駅の外にかけ出ると、いつの間にか履いていた靴がなくて、俺はこんなことばっかりだとか思う。仕方なく靴下のまま外を走っていると、チャリンコに乗った大学の同じクラスの女子に出会い、青い靴あったんだけど君のじゃない?時かれ、探してたんだよ〜と中を見ると、ヒール。しかもそんなに青ないし!むしろ黒っぽいそれを見ながら、これちゃうわ〜というとやっぱりかという反応。

帰り道、この坂を越えたら最寄りの町だっていう坂がなぜかこの街で一番高いことになっている。両手も使いながら登ると最後の3軒、民家の中に道がある。1軒目は空き家、犬がいたのは知らなかったので、頭がのぞいて情けない声をあげる。2軒目も空き家。3軒目、汚いが人が住んでいるようだが、通るたびいつも誰もいない。最後の部屋のドアを抜けようと狭い廊下を歩いていると、横の木窓からグラサンとメットをつけたバイクで信号待ちしてる人の頭が覗く。一瞬びっくりするが黙ってそのままガチャガチャ!と扉を開けようとしてると泥棒だと思ったそいつが声をかけてくる。

ちゃうわ、通りたいだけじゃ!

暴言の応酬をしながら、逃げ切って仕舞えば勝ちとばかりにその部屋を通り抜けようとするも、なんだか急に小さくなり、腰が引っかかって通り抜けられない。部屋の向かいにドアがあり、出口がもう見えている。しかし、あそこまでたどり着かない。どんどん気が焦ってくる。そのうちに男がナイフを取り出したので慌ててバンッ!と木窓を閉める。ボロいので、隙間からナイフがのぞいているが、そうして時間を稼いでいる間に横の通路から外に出て、細くて高いところにある道を通って逃げると横でまだ気づいていない男が窓を叩きながら大声で叫んでる、その横を通って逃げる、そんな夢。

 そうか、わかりました。ワタシわかりました。

絵を描いたら自分本院あって他人を不幸にする、とか、考える必要ないんだ。

現に今、絵もかけるし、べつに自分の世界で閉じこもって、二進も三進もいかなくなってないじゃないか。

大切なのは、絵描きとしてのこの共通の感覚、共通語を感じているかどうかなんだ。

それをなくして、ただ普段の会話だけに気を使っていても、本当のところ何も話せない。

絵を描きたい、絵を描く喜び、そして、その感覚を共有できる仲間、

これと同じことを、相手も考えていると思えるかどうかなんだ。