何もしないということをしたい

端的に言って何もしたくない。本当に何もしたくない。

仕事一本終わらせたし、いいだろ別に。

先日から感じている喪失感は未解決のまま、今も私の胸の内でくすぶり続け、

うまくやりくりしながら日々を送っている昨今。

呆然とできる場所へ行きたい、と思い、唐突に上野公園のことを思い出す。

仕事終わったら行こう、という希望を心の支えにその日をやり過ごすが、そんな時間に終わるはずもない毎日。

 

最近ぼーっとしていることが多い。これもまた、仕事が快調に回り始め、以前感じていた憂鬱感が軽減されたせいだろう、と思い、そんな分析すらも馬鹿らしくなる。

そんな小賢しい自分の心の検分とかが、日々の情緒や生活を矮小にまとめ上げ、精神を貧しくしていくのではないかと思う。

 

ゆめくりの博さん上手いなぁ、こんな漫画があったんだ。白浜鴎さん上手いなあ、絵ってこんな風に描くんだ.....

自分にとっての良いものに耽溺して微睡みながら、理性も秩序もない混沌とした休日を送りたいもんだと思う。

モラルを破壊するのはとても気持ちがいい。(と書くこともまた一つの自分の中でのモラル破壊であるとても気持ちがいい。)だから人はけものフレンズを見て退行して遊ぶのだし俺だって例外なくその一人だ。責任なんて取りたくないしメンド臭い会話なんてしたくない。それが自身で自由にコントロールできない強大な恐怖感から強要されるモラルならなばなおさら。

 

とりあえず今日も自宅へ生還できた、ああ疲れたなあ。

家に入って独り言が多くなり、外にいた時は「ふつうの社会人」になるためにどれほど緊張していたかがわかる。変になり方が頭の中でわかっている分、本当にしたいことを抑圧させているストレスにいつも晒される。

一人の時間ってほんと最高。本当に楽しいし楽だ。

でも一人の時間ばかりってのも嫌だ。大事なのは、両者のバランスなのだ。

生活のリズムをだんだん変えればいいんだよ、と、賢しい頭の一部分が、具体的な解決案を提示しようとしてくるけれど、

今はそんな心底くだらないことより、共感してくれる誰かが欲しい。

 

お、何か終わり方「女生徒」っぽい?

 

 

道満晴明の「オッドマン11」と、高橋葉介の「Uボートレディ」今日TSUTAYAで見かけた。欲しい。

「健康で文化的な最低限度の生活」読みたい。

 

男性オタクたちの女性への欲望が萌えキャラと化してそれがだんだん一般化されて女性にも受け入れら「れる(自発)」様になった昨今、女性オタクたちの男性への欲望も一般化して男性に受け入れら「れる(可能)」んじゃないだろーか

新しい時代の男性キャラを生み出せる可能性を妄想する。

女キャラ主人公の漫画多すぎじゃ?

俺が選り好みしてるだけかもしれんけどな。

でも問題は「そういう漫画を読む奴が」好む男性キャラが、なかなかいないってことなんだよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

continue...

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なんだか多幸感に溢れたような日記を書いているが、とりたててそんなに幸福でもない。

先々週と、先週は特に楽しい出来事が続いただけだ。目を閉じると喪失感がやってきて、微睡んで、眠りに落ちてしまう。生活が堕落して、思い描いた通りの理想的な生活を送り続けることが困難になってしまう。

しかし、これこそがなんらかの創作に対する根源的なモチベーションになっている気がしてならない。本当に無駄足を踏んでいるのだとすれば、俺は即刻、この無駄な時間を切り捨てて、効率的に、自らの理想通りの生活へと矯正するのだろう。

しかし考えて見ても、そうしなければならないような気はしない。このことについての考えとは、全くもって曖昧で論理性など皆無だが、なんとなく、俺の人生はこの直感に従って、今まで生きてきたような気がするのだ。だから直感にしたがうことに迷いはない。

 

新豊洲から、豊洲へ向かって歩いていた。午後9時過ぎ。遠景に光るビル群と、誰もいないゴーストタウンめいたモデルハウス、それらが織りなす一種退廃的な雰囲気を感じながら、俺は全く普段の生活と切り離された、異質な感覚を味わう。

この普段の生活というのが意外と強大で、何かご大層な理想やお題目を思いつき、それの通りに行動すると誓ったとして、2日、3日経つと、もうすでに普段の生活の、そのルーチン化された感受性や手順に取り込まれて、霧が晴れるように冴え渡った、あの感覚を忘れてしまう。そして人間関係で溜め込んだストレスを癒すために、インターネットやテレビに転がっている、それを発散させることに特化した様に作られたコンテンツを貪り食い、明日へのコンディションを虚ろに整えるのだろうと思った。

 

俺は様々なものを見る必要があるんだと思う。なにかでかい仕事をやりきった後、2週間ほどまとまって休みをもらい、バイクを買って、遠くへ旅に出たいと思う。

2日間、また例の喪失感を味わって、暗闇の中でベッドに横たわってぶるぶる震えながら、なぜ俺はものを作らないんだろうと嘆いた。エゴだとか、公的だとかそう言ったことが全てどうでもよくなる感覚を想像して見る。2者間の対立から止揚された、3つ目の答えについて抽象的に考えを巡らす。最近グリーンマイルの1巻を読み終わり、またBOOK OFFへ行って2巻を購入する。せっかく買ったそれを読まずに電車の中でも、目を閉じながらずっと考える。

 

何かに自由にならなければならないと思う。先行世代のおためごかしや嘆き事に、一々取りざたされる必要はない世界を夢想する。自分の意思というものが存在するのかということを考える。

 

本当に何もする気が起こらない。別にこれは不安がったり、恐れたりするものじゃなく、ただそういう「時期」なんだと思う。

 

明日もまたいつもの様に、俺は社会を動かすものの一部と化して、先輩に気を使ったり、後輩に気を使ったりしながら過ごすことになるだろう。

そこに幸せはあるのだろうか?

「メメント」を見た。

メメント」あのクリストファーノーラン監督作。

ユージュアルサスペクツを見て以来、こういう類の映画は自分に合わないことがよくわかっている。脚本と構成がものをいう映画、衝動とか、迫力とか、感情的なものの入る余地のない映画。

途中でちょっと前のシーンの細かいことが気になりだして、わからくなって、めんどくさくって投げ出したくなるのだ。

たぶんこういう映画は、見終わった後にそのまま続けて2回目を見る必要があるのだろう。何度も見ることで、ようやく理解できる面白さも確かにあるのだろう。

しかしわかっていながらそうしない。「時間がない」を言い訳に。もうこんな時間だ、と画面の外に目をそらし、絵を描かなきゃと焦ってしまう。

何か俺がそれなりのことを達成して、じぶんの表現したいものが自分でよくわかり、それをするための手段もコントロールできるようになった頃、

もう少しだけ、自分の衝動を自分で鎮めることができるようになった頃に、沢山研究しようと思った。

いろんな場所から物語が始まっているからよくわからん、最初のシーンはどこに繋がってるんだ?時系列的に並べ直した時に、登場人物の感情はちゃんと自然なものになって、感情移入できるようになるのか?頭の中で、筋を綺麗に一つにまとめたい...

 

 しかし、こういうものが好きな人もいるんだろうなあと思うのもまた事実。そういった面白さも、確かにある。

 別にノーランは面白い映画たくさん撮ってるし、好きな監督だよ。インセプションは家族で見に行って、複雑な構成と映像の複雑さが妙にマッチしてて楽しめたし、バットマン三部作だってテーマがとても面白いと思った。インターステラーは過剰に構成されて狂ったような密度の話になってるけど最後はちゃんと娘の愛ってテーマで落ちついて、その過剰な構成がむしろ狂気的なまでの愛っていうエモーショナルなものに感じてとてもよかった。(セブンイレブンで980円で売ってたし)

 

 探偵小説でも読んで見たいなと思う。ホームズから始めてみようかな。時代の文化や風俗は好きだけれど、そこに物語がないと話は成立しない。ミステリーだったら昔から読んでるから、あの文脈で、俺の頭の中でなんらかの話を構成したい、という欲望。

困ったら舞城王太郎みたいなトンデモミステリにでもしちゃえば良いんだよな。ディスコ探偵みたいなさ。

 

とりあえず、設定集のためだけに買った大逆転裁判を、裁判の途中で放置して、筋がわからなくなってるのとかはマズイと思うわけよ。

 

comitia119に行った話

仕事もひと段落したので、土日は休んでcomitia119に行ってきた。

前回と前々回は自分も出店したのだが、今回は仕事がクソ忙しくって出せなかった。

14時ごろにふらっと寄って、ぶらぶらと中を見て回った。コミティアはいい。会場はコミケほど広くはないし、昼過ぎから来ても全然買えるし、なにより出して良い本がオリジナルのみだ。

1時間半ほど見て回って、何冊か本を買って会場を後にしてから、妙に体が元気で、生命力に満ちていることに気づく。

創作そのものに対する愛が溢れているから、あの中の一員になりたいと思う。

 

それでも家に帰って、こもれびノート(買うリストには入ってないのに、なぜか終わってみるといつも買ってしまっている)のカップルのやりとりとか見てて、でも現実はこんなに幸せばっかじゃないよなとかツッコミながらそれでもなんか笑ってしまう。

そうやって笑いながら、なんだか俺が絵を描く時はいつもすげー罪悪感みたいなのを感じているよなとか思う。

 

悩んでいるからだ、色々と。

主に普段の生活とか、人との関係とかで。

絵そのもののことなんかで悩んだことなぞあまりないように思う。

自分のエゴを、優先させてしまうことで併発してしまう、他者への不義理や裏切りに耐えられない。

何てことをいつも考えて、しかしまたそれこそが、どうしようもなくくだらないことのように思えてしまう。

 

会場にいた短い時間や、家に帰って、湯船にたっぷりと湯を張って、熱い風呂に浸かりながら呆としている時間、その種の迷いから自由になれた気がした。

少しだけではあるが。

 

様々なことが変化している。

変化するために切り離した部分を、惜しむ間もなく流されていく気がする。

しかしその果てにたどりついた場所が、どれほど昔望んだものとかけ離れていようと、その瞬間々々の自分が望んだ最善の結果であることは間違いが無い。

 

まあどうせそんなときになっても俺はいつもの様に、あたかも望んでたものを全て網羅できているかの様に理屈で丸め込むのだから。

 

最後にはみんな笑っていればいいなと思った。

創作を愛し愛される全ての人々が、その感性のままに、その様になればいいと思った。

現実はそんなことばかりじゃ無いけどさ。

一番エラい人と話した話

うちのスタジオを率いる「監督」という職業をやられている人と話をする機会を得た。

遅くまで残って動画やってたら向こうから話しかけてきてくれたのだ。

 

なんだか色々なことを話して、1時間以上もその場にいた。動画作業は諦めた(笑

というか、そんな機会、たとえ明日が締め切りの動画作業でさえそっちのけられるくらい重要なもんだろ思った。

色々話したけどさ、スッゲー要約するけど、(本当はこんなものの何倍も含みのある言い方で)何事も好きになって取り組むといいよみたいなことを言われて、すげー考えたことがあってさ、

なんか、他人のこと好きになれば、家帰っても四六時中その人のことを考えてるじゃない?仕事や会議の予定とかも、そんなふうにして捉えられれば、自分から動けるようになるって話だと、俺は理解したんだけど、俺って家帰ってからも他人のことなんて考えたことあったっけ?て根本的な問題に当たってさ。

最近家に帰って考えるのは、今のこの生活のリズムを崩さずに、丁寧に生活を送り続けるってことと、最近ネットでやけにミソジニーVSミサンドリーの戦いを見かけるなということと、やっぱり人を好きになるには、今のこの自我の空洞化の問題が片付かなければならなくて、そのためには今の仕事を粛々とこなすほかないのだということとか。

だれか対象がいるわけではない。ただ漠然と、自分以外の人との付き合いかたを、まだ段取りの段階で決めかねているってこと。

誰かのことなんて、考えたことがない。

 

監督と話していると、ああこの人は本当に人が好きなんだなあと感じる瞬間があって、その瞬間裏返し的に今俺はこの人にすごく心の扉を閉ざしてるんだなあと実感した。

 

ってか、この人だけにではなく、誰に対しても俺はそうだろ。

 

心の扉って、どうやって開くの?

 (いやむしろ、こうも考えられるぞ。自分に対するコミュニケーションの期待値が上がっているだけであると。コミュニケーションが経験に応じて成長していくものなら、今の俺は年相応の自我だと。

>困った時は、まず前提を疑ってみて、ゲームから降りてみよう。そうすると新しい道が開けるかもしれない。

>しかしそれは本当に、「新しい道」なのだろうか?

>わからない。)END

快楽の棺

ま、結構いい国なんじゃねーかと思うけどね日本って。

なぞ、気分で抑圧や背徳感を肯定してみる。今そんな気分。

数々の抑圧的な部分はあるにせよ、それによってあんな素晴らしいオタク文化が作られたのかと思うとね。

憂鬱な気分はなりを潜めている。

今の俺は幸福なのだ。

 

先日、後輩と色々喋って、自分の技術を披露する機会があり、ずーっと、結構長い間

教えられる側だった僕の自分に対するイメイジが一変して、今のこんな状況を生み出しているのかもわからん。あそこまで到達せねばならないという目的地が抑圧が承認された快楽によって打ち消され、ふわふわとした夢遊病的な世界を歩いている気分である。

もしくはリア充たちは、いつもこんな景色を見ているのだろうか?

俺は本当に快楽に忠実だなあ。

 

 

「快楽に忠実ではいけない」という自分の中にある強すぎる倫理観は、不幸に陥った時のみ有効に発揮するものなのであるならば(目先の快楽に引きずられて、状況はどんどんダメになっていくからだ。状況を好転させるには、自分が今一番嫌だと思っていることをやる必要があるからである。)今の俺がこの快楽を享受してはならないとは言えない。

しかし、一方でそれは単に短期的なものに過ぎなくて、結局俺の本質自体であるネガティブさと自意識が欲しがる愛情とでまたすぐに俺は憂鬱になるのだから、それ自体が俺の心の戻ってくる本質なのだから、今日だけにしとけよって話なのだ。

 

願うべきは、幸せは永遠には続かないんだという認識で、それは単に依存しているに過ぎないのだ。

仮に将来、幸せな家庭を築けたとしても、そこが人生の最終目的地だと言わんばかりに依存して、迫り来る見えない崩壊へ導く脅威に気づかないようでは失格であるのだから。

何かにつけて、脅威はやってくる。しかしそれは相対的なもので、重要なのはなんというか、過去の不幸に結び付けられた、特定の状況に対する苦手意識のようなもの。

正にも負にも自由に振れる、可塑性のある心を作ることだ。

そしてそれは、健全な創作のためにある。

 

 

 

どうでもいい話

本日、出社10:00、退社、20:30。勤務時間10時間半。

作業内容は、そこそこ。(作業内容の難易度なぞ緊張感の有無の問題である)

 

昨日から心調がよろしくない。(体調、ということばがあるのならば、心の調子のことを心調と言ってはならない道理はない。

早めに帰宅し、本日も20:30と割と早めの帰宅。心の調子が不安定な時は、ぐずぐず居残っているとろくなことにならない。他人との接し方のスイッチがバカになり、まともな神経では踏み込んではならないような部分まで、あとで思い返すとはなはだ赤面してしまうような部分にまで踏み込んでいってしまい、2,3日経って正常に戻ったあとで、ようやく何がダメだったかを自分の中で理論的に説明することが可能になり、ひどい後悔に苛まれるからだ。

そういうことがあった日は、精神的なクライシスに陥る。「それがなぜだめだったか」はわからないのだが、ダメだったこと自体はわかるのだ。しかし、わかっててなぜそこまで踏み込んでしまうかと言われると、他人から愛情を「少し多めに」欲しがって、余計な分の愛情を他人から受け取りたいと思ってしまうからだろう。

そういう時は、チョコレートでできた山のたとえ話を思い出す。(こうした状況をわかりやすく説明するために、自分で勝手に作ったたとえ話だ)

 

ある丸テーブルの上に、光沢のある青い包み紙で1コ1コ包装されてあるチョコレートでできた山があったとする。そのテーブルには自分を含め数人が卓についている。

この甘いチョコの山からみんな平等に同じ数だけチョコを分けるのが、「適切なコミュニケーション」

しかし、自分がひどく空腹で血糖値が足りていない場合、自分は本能的に、自分を守るために、他の人よりもより多くのチョコレートを取ろうとしてしまうだろう。

そうして自分はより多くの甘さを享受できるが、そのテーブルの他の人たちから疎んじられて、別のテーブルへ移れと誹りを受ける。

そうして点々と同じようなテーブルを回り、チョコレートを掠め取っていく。

しかし最後にはどのテーブルにも座らせてもらえない。

愛情乞食。

本能はコントロールができない分恐ろしい。

 

そうならないためにも、早めの帰宅。

一人で部屋で絵を描いたり、ネットなんかをしたりしているとだんだん戻ってくるはずなのだ。

今日はクライシスがなかった分、よくやったと本当に自分を褒め称えたいような気持ちになる。それがあると、強烈な後悔により「こういう一人になりたがる自分を、直さなきゃ!!!」と精神脅迫が始まるからだ。むろん頭では直す必要がないことはわかっている。しかし暴れまわる疎外感や愛情不足には太刀打ちできない。長期的な治療計画よりも短絡的な快楽や救いを取ってしまう。

これは本当にどーにもできないのだ。少なくとも今のおれには。

そうするとまた自己肯定感が薄れ、また心調を悪くして孤独になりたがるという無限ループ

このループに何度ハマって抜け出せなかったことか!!

 

ああ、よかった。この文章を書いている時点で俺はこの孤独感を肯定できて、愛情すらも感じている。よかったよかった、本当に良かった。

 

家に入って独り言が多くなる。シャワーを浴びているときもずっと喋っている。

内容は、「どーにもならんよなー(何が?)」ということを、ニュアンスやディティールを変えてただ口から垂れ流しているだけ。駅からの帰り道歩いているときも、ずっと頭の中で仮想会話をしている。あの作品の素晴らしいところはここだだの、今日あった会話を何度もなんども反芻するだの。

 

早く正常に戻って他の人に迷惑をかけない自分になりたい。

(そういって、自分が迷惑をかけたという罪悪感を背負い込みたくないだけであったりする)

責任の問題ではないのか?とも思う。

人はどんな行動をするにしても、「じぶんがそれをしたい」と思って行動するわけじゃん。それをしたかった根拠は感情的なものであり、その時の自分のテンションであるわけじゃん。

テンションが地の底まで下がっているときに、瞬間的、突発的な衝動や快感に引き寄せられて思わず口にしてしまったことへの感情的根拠不足、感情的責任不足の問題じゃないのだろうか。何もしたくない(かもしくは今の立場を守る最低限のことにしか感情的根拠がない)って「状態」のときにはだ、したいと思うことの範囲が狭まるから、当然話せることの範囲も狭まるわけだ。

全然気持ちが乗っておらず、話したことが、別に何にも話したくないことだったということが起こるわけだよ。そうして会話途中に瞬時に自己嫌悪に陥って、ヘンな空気を作ってしまったりする。

 

 

昨日は2時間ほどインターネットをしたり、絵を描いたりして過ごし、PCを閉じて布団へ直行した。そうして目覚ましのスヌーズ機能で30分おきに起こされて、ようやく目がさめるともう出社10分前だった。8時間は寝たはずなのに寝た気がしない。なんだかこんなに余裕がないのは久しぶりだった。寝方を間違えたのだ。適切の余白が生活の中になかったから、このようなクライシスが起こるのだ。

 

 

あああああああああ

 

一人の時間を満喫しよ。

久しぶりに放送された水曜日のダウンタウンを見て、こないだまとめ買いしたりびんぐゲームの最終巻を読んで絵を描いて、タバコ吸って寝よ。

 

明日は早めに会社いこ。

せっかく時間があるんだし、生活を俺の中に取り戻すのだ。

 

 

舞妓さん地のまかないさんが面白い。やっぱ女性が描くと丁寧な生活描写になるね。