快楽の棺
ま、結構いい国なんじゃねーかと思うけどね日本って。
なぞ、気分で抑圧や背徳感を肯定してみる。今そんな気分。
数々の抑圧的な部分はあるにせよ、それによってあんな素晴らしいオタク文化が作られたのかと思うとね。
憂鬱な気分はなりを潜めている。
今の俺は幸福なのだ。
先日、後輩と色々喋って、自分の技術を披露する機会があり、ずーっと、結構長い間
教えられる側だった僕の自分に対するイメイジが一変して、今のこんな状況を生み出しているのかもわからん。あそこまで到達せねばならないという目的地が抑圧が承認された快楽によって打ち消され、ふわふわとした夢遊病的な世界を歩いている気分である。
もしくはリア充たちは、いつもこんな景色を見ているのだろうか?
俺は本当に快楽に忠実だなあ。
「快楽に忠実ではいけない」という自分の中にある強すぎる倫理観は、不幸に陥った時のみ有効に発揮するものなのであるならば(目先の快楽に引きずられて、状況はどんどんダメになっていくからだ。状況を好転させるには、自分が今一番嫌だと思っていることをやる必要があるからである。)今の俺がこの快楽を享受してはならないとは言えない。
しかし、一方でそれは単に短期的なものに過ぎなくて、結局俺の本質自体であるネガティブさと自意識が欲しがる愛情とでまたすぐに俺は憂鬱になるのだから、それ自体が俺の心の戻ってくる本質なのだから、今日だけにしとけよって話なのだ。
願うべきは、幸せは永遠には続かないんだという認識で、それは単に依存しているに過ぎないのだ。
仮に将来、幸せな家庭を築けたとしても、そこが人生の最終目的地だと言わんばかりに依存して、迫り来る見えない崩壊へ導く脅威に気づかないようでは失格であるのだから。
何かにつけて、脅威はやってくる。しかしそれは相対的なもので、重要なのはなんというか、過去の不幸に結び付けられた、特定の状況に対する苦手意識のようなもの。
正にも負にも自由に振れる、可塑性のある心を作ることだ。
そしてそれは、健全な創作のためにある。
どうでもいい話
本日、出社10:00、退社、20:30。勤務時間10時間半。
作業内容は、そこそこ。(作業内容の難易度なぞ緊張感の有無の問題である)
昨日から心調がよろしくない。(体調、ということばがあるのならば、心の調子のことを心調と言ってはならない道理はない。)
早めに帰宅し、本日も20:30と割と早めの帰宅。心の調子が不安定な時は、ぐずぐず居残っているとろくなことにならない。他人との接し方のスイッチがバカになり、まともな神経では踏み込んではならないような部分まで、あとで思い返すとはなはだ赤面してしまうような部分にまで踏み込んでいってしまい、2,3日経って正常に戻ったあとで、ようやく何がダメだったかを自分の中で理論的に説明することが可能になり、ひどい後悔に苛まれるからだ。
そういうことがあった日は、精神的なクライシスに陥る。「それがなぜだめだったか」はわからないのだが、ダメだったこと自体はわかるのだ。しかし、わかっててなぜそこまで踏み込んでしまうかと言われると、他人から愛情を「少し多めに」欲しがって、余計な分の愛情を他人から受け取りたいと思ってしまうからだろう。
そういう時は、チョコレートでできた山のたとえ話を思い出す。(こうした状況をわかりやすく説明するために、自分で勝手に作ったたとえ話だ)
ある丸テーブルの上に、光沢のある青い包み紙で1コ1コ包装されてあるチョコレートでできた山があったとする。そのテーブルには自分を含め数人が卓についている。
この甘いチョコの山からみんな平等に同じ数だけチョコを分けるのが、「適切なコミュニケーション」
しかし、自分がひどく空腹で血糖値が足りていない場合、自分は本能的に、自分を守るために、他の人よりもより多くのチョコレートを取ろうとしてしまうだろう。
そうして自分はより多くの甘さを享受できるが、そのテーブルの他の人たちから疎んじられて、別のテーブルへ移れと誹りを受ける。
そうして点々と同じようなテーブルを回り、チョコレートを掠め取っていく。
しかし最後にはどのテーブルにも座らせてもらえない。
愛情乞食。
本能はコントロールができない分恐ろしい。
そうならないためにも、早めの帰宅。
一人で部屋で絵を描いたり、ネットなんかをしたりしているとだんだん戻ってくるはずなのだ。
今日はクライシスがなかった分、よくやったと本当に自分を褒め称えたいような気持ちになる。それがあると、強烈な後悔により「こういう一人になりたがる自分を、直さなきゃ!!!」と精神脅迫が始まるからだ。むろん頭では直す必要がないことはわかっている。しかし暴れまわる疎外感や愛情不足には太刀打ちできない。長期的な治療計画よりも短絡的な快楽や救いを取ってしまう。
これは本当にどーにもできないのだ。少なくとも今のおれには。
そうするとまた自己肯定感が薄れ、また心調を悪くして孤独になりたがるという無限ループ
このループに何度ハマって抜け出せなかったことか!!
ああ、よかった。この文章を書いている時点で俺はこの孤独感を肯定できて、愛情すらも感じている。よかったよかった、本当に良かった。
家に入って独り言が多くなる。シャワーを浴びているときもずっと喋っている。
内容は、「どーにもならんよなー(何が?)」ということを、ニュアンスやディティールを変えてただ口から垂れ流しているだけ。駅からの帰り道歩いているときも、ずっと頭の中で仮想会話をしている。あの作品の素晴らしいところはここだだの、今日あった会話を何度もなんども反芻するだの。
早く正常に戻って他の人に迷惑をかけない自分になりたい。
(そういって、自分が迷惑をかけたという罪悪感を背負い込みたくないだけであったりする)
責任の問題ではないのか?とも思う。
人はどんな行動をするにしても、「じぶんがそれをしたい」と思って行動するわけじゃん。それをしたかった根拠は感情的なものであり、その時の自分のテンションであるわけじゃん。
テンションが地の底まで下がっているときに、瞬間的、突発的な衝動や快感に引き寄せられて思わず口にしてしまったことへの感情的根拠不足、感情的責任不足の問題じゃないのだろうか。何もしたくない(かもしくは今の立場を守る最低限のことにしか感情的根拠がない)って「状態」のときにはだ、したいと思うことの範囲が狭まるから、当然話せることの範囲も狭まるわけだ。
全然気持ちが乗っておらず、話したことが、別に何にも話したくないことだったということが起こるわけだよ。そうして会話途中に瞬時に自己嫌悪に陥って、ヘンな空気を作ってしまったりする。
昨日は2時間ほどインターネットをしたり、絵を描いたりして過ごし、PCを閉じて布団へ直行した。そうして目覚ましのスヌーズ機能で30分おきに起こされて、ようやく目がさめるともう出社10分前だった。8時間は寝たはずなのに寝た気がしない。なんだかこんなに余裕がないのは久しぶりだった。寝方を間違えたのだ。適切の余白が生活の中になかったから、このようなクライシスが起こるのだ。
あああああああああ
一人の時間を満喫しよ。
久しぶりに放送された水曜日のダウンタウンを見て、こないだまとめ買いしたりびんぐゲームの最終巻を読んで絵を描いて、タバコ吸って寝よ。
明日は早めに会社いこ。
せっかく時間があるんだし、生活を俺の中に取り戻すのだ。
舞妓さん地のまかないさんが面白い。やっぱ女性が描くと丁寧な生活描写になるね。
いや、いや
いやいやいや.......
そのへんの不条理や矛盾を内包して、それでも平気な顔をしてられるくらい、器もでっかくなりますよ!
THE END!!!!!
AAAAAAAAAGH!!!!!!
アーーーーーーーーッッ!!
わああーーーーーーーーーー!!!!!!
死
吉成曜は独特の作家性を持ってるから、自分のスタイルでしか絵描けないけど、濱洲英樹とか向田隆とかどんな絵柄にも合わせられてなおかつ動きの幅が全方位に自由だからいいよね。吉成曜絶対主義だったあのころの呪縛から解放された気分。ももや人狼で沖浦作画にえらい苦労したって言ってたしな吉成は。
金田系に忠実になるよりは、自分の中の動きのイメージに忠実なほうがいいんだ。金田系の人はさ、ほら、そのスタイル自体が自分のイメージなわけだからさ。俺は自分でかっこいいもの以外も書きたいと思うし、かっこいいもの以外を書くときに、別のイメージを模索する必要があるわけよ。
小林さん家のメイドラゴン、女版おまえらが主人公だったね。なんだろね、京アニの男女比率の問題かな?
エフェクト気持ち悪いと思ったが、ファントムはそんなことないしなあ。
でも動画の巧さには恐れ入ります。
まんざいせんかもツルネも作らなくていいよ、そんなバンバン作品なくていーと思うんだけどなー。
長いスパンで、記憶に残るいいアニメを作ってくれ〜
…
このストレスはなんだろう?動画マン始めた頃によく味わっていたストレスだが、しかしなんかそんなに別に感じる必要の無いことにも思えて仕方が無い。
別にこの経験が無駄ってわけじゃないんだけど、なんかもっとうまいやり方がありそうな気がして仕方が無い。
土曜日一日中使って寝て絵を描いて、なんかペースが戻った気がする。少しだけど。日曜も休みなのが救いだな。
まあ別に、他人に合わせることが絵描きにとってストレスになるから、ゲーム会社とか普通の作業をする会社みたいについたて取っ払ってオープンにしようぜっていうのも賛成といえば賛成だが!大前提としてのそこを無視してやってきている昨今、そこの噛み合わなさが実際に現場にストレスという形で露呈してきているのではなかろうか!!
と、そう考えてるのはきっと僕だけじゃなく、その証拠にみんなどんどん辞めて行くしなー
○○さんと○○くんにはじまり、終わってから○○さんも○○さんも抜け、大黒柱の○○さんも移籍の話が聞こえる始末。
どうよ。やっぱり日本のアニメスタジオでは向いてないんじゃ無いの、このやり方。
正確に言うと、目的地が見えていなければ。その先に何があるのか明確に考えとしてなければ、みんな混乱するんじゃないのか。
とは言いつつ俺は行き先がないから続けてるわけなんだけどさ…
行き先ないし、少しはそのやり方、共感するから続けてるわけなんだけどさ。
少しは(6割くらい?)
今は原画の仕事をするためのモラトリアムなわけだから、粛々と自分の牙を磨いとくしかないよね。
次からは最初っから絵のうまいヤツ入れれば?その方がいいと思うんだ。なんだあの叩き上げ的世界観。下手なやつだから取る!、みたいな
(…と、もう嫉妬せんでも大丈夫な立場になってから言ってみる。)
はーリーリエ描きたい。アニポケSM良い。ED作画で岩根雅明氏の名前覚えた。リゼロのopでサビにタイトルロゴ持ってくるの良い。このすば2の作画叩きふざけんな菊田神とも思ったけど、1期の絵見たら分からんでもない。
良いアニメが描きたいなー
あの頃考えてたイメージと比べると、なんかすれちまってんのかもしれないな。
隣の人とニコニコ笑ってアニメ作りたいなあ、
だから一人の人間がすべてをコントロールしようとしても無理なんだって。
任せてくれよ、絶対やるからさ。
後輩いつまで新人って言わせとく気よ。
(つーかそれが「仕事」だから「達成させなきゃ」って観念が悪い方に働いてる気がする。制作さんに対するアレとかも)
穴を作ったら、きっとその中でできるやつが自発的に穴埋めるよ。そのときに自由とか喜びを感じるんだろうよ。
作れ‼︎
作ってください…
どーせ貧困や欠乏からストレスが生まれんだろーよ。そしてたまたま誰か一人が潤えば嫉妬で足を引っ張り合う。
だから上手いやつ入れてくれって話DEATH。
(つか、評価したって名目で○○さん囲い込んでんじゃねーよ!ばればれだっつーの!!)
「コミュ力」なんてワザワザカタカナなんかで再定義しなくっても状況がそれを作ってくれるの!
状況とか、緩やかで濃密な関係さえあれば、コミュ力なんでフザけた言葉はみんなの中から出てくるの!
みんなの中に眠ってるの!コミュ力とかいう呪いは!
みんなどうしてこんな仕事続けてんだ?
深夜のバーミヤンで、BOOKOFFで買った新潮文庫のグリーン・マイル1巻を読みながら(読んでないけど
迎春、ますますご健勝のことと思われますが、こちらは相も変わらずとても憂鬱な毎日で御座いまして
ようやく様々なことがうまく進むようになってきたような気がする。
しかし、前にも書いたが、最近になって自分の欲望の深さに驚かされる。
それまでコントロールできていたと思い込んでいたのは、自分を出すことを抑制していたからで、コミュニケイシヨンのために自分を少しずつ出せるようになってからと言うもの、喪失のコントロォルはうまくなったと思うが、それまで見せていけないと思っていた欲望の深さも一緒になって少しずつ露呈していく。
自室に一人でいるときに切り替えていたスイッチがバカになり、少しつづ緩んできているようで一人で慄く。しかしそういう自分は誰にも見せない。とても個人的な問題だからだ。
やはり自分というのは不可思議なもので理解しがたい。自分がそうなんだから他人からすれば一層そうだろう。そんなんだからうまくいかなかったんだよ今まで。
そして今日もまた創作物から鏡のように現実を映し出して読み取ろうとする日々。
サンデーで新連載が始まった。舞妓さんちのまかないさん。生活を大事にしていてとても気持ちがいい。こういうの描くのやっぱ女性はうまいよなあ。今でもあるのか?舞妓って。
きっと生で見たらまた勝手に一人で狂喜するんだろうなあ。そしてそういう自分を引いた目で外側から見て、正負の感情の綱引きになってストレスが溜まるんだろうなあ。
まで考えた。しかし、それは漫画の面白さとは関係がない。
女性の描く漫画で人間関係がぱっと見わかりづらいのは俺だけ?その人とこの人の関係性とかもっとスルッと入ってくるもんなんだろうか。昔はもっとひどかったけれど。最近は少しマシになったけど。
「いとこ」と「はとこ」が直感的にわかるようになっただけで大進歩だ。
最近の双亡亭壊すべし、のソラリス+トップをねらえ感。最近ソラリスの文庫版を読み終えて確信を強めた。+ドリルでガイナ系?
からくりサーカス以降の物語の大胆な飛躍は藤田和日郎漫画にとってマイナスになってんじゃないだろか?と思いつつ.....
ハードに物語を紡いでた藤田和日郎漫画がまた読みたい。ゴースト&レディみたいに。
いや、でもこれって少年向けなんだけどさ、と悶々としながら読んでいる。
RYOKOはマジで頑張ってくれ。お前はそのまま走り続けてくれ。
傷物語冷血編も見た。これで幸せになれると思ってしたことが実は全くの見当違いで反対側の結果になり、阿良々木は最後まで何も決断できない人間のまま終わる。成長神話のアンチテーゼとして強烈に魅力的な話でとても満足した。君の名聲片隅に加えての3部構成できっと売れないだろうけど、売れない感じってのもなんか良い。こういう話は決してメジャーになってはいけないからだ。隅の方で隠れてこそっと見るのでちょうどいい。超名作だった。
そんな感じの毎日。2017年はもっと自分のことを気にかけよう。
社交界の訓練は切り上げる。もう終わった。次に進む。
ハードボイルドな小説を読んで、ハードボイルドな映画を観ようと考える昨今です。
カフカ的世界観
最近日記を書くことをサボって居た。
別にサボったというわけじゃないが、1日であまり人は成長しない。
新しい経験はたくさんあるけれど、そこで初めて自分の中に生まれる今までになかった考え方や価値観の萌芽は、ひと月ほどの冷却期間を経て昔の価値観とゆっくり混ざり合い、新しい自分の考えを形作るわけです。
最近になってよく思うのは、人の欲望は果てしないということ。
そして余暇を過ごすのに人は、この資本主義的世界観に身を置く以上は多かれ少なかれ自分の欲望を満たす行為に費やすこと。
そして、仕事という不可思議な存在について。そこから派生して、アイドルって何だ?ということ。
一見してとりとめないテーマ群のように思うが、なんだか抽象的なイメージとしてこれらはつながっているような気がする。
知人にアイドルの映画を勧められた。別に「嫌い」ってわけじゃない。ただ何だかアイドルは「嫌だ」って感じ。アイドルの人気投票システムというのが、快不快をモラルの判断として使っている感じがして嫌なんだ。何だか感受性が退化して、動物に戻ったよう。
「何もない普通の女の子」を、「擬似的にあつらえた資本主義的システム」の中に放り込むと、アラ不思議、需要と供給が成立して、そこに「仕事」が生まれるわけです。
巨大な実験場なんではないか?とも。コミュニケーションがとくいな女性を、超高度なコミュニケーション力が求められる「アイドル」という場所に囲い込み、そこで戦わせる。生き残ったものがこれからの社会を牽引していくのに最も必要な力を持っているわけです。その篩として機能しているのではないかしら。
何だかとても斜に構えた考え方だね。しかしそう考えないとやってられない。
少なくとも推しメンを応援して育ててあげよう!なんて気分にはならんのだから。
そしてこれも仕事として成立するならば、仕事って一体なんだろう?少なくとも僕が今まで考えて居たようなものではないらしい。
そして、仕事をするためには個人の欲望を押さえつけ、コントロールしなければならないそうしないとうまく現場が回らない。
それはコミュニケーションに必須のスキルでもあって、要するに何だか他の人の...