吉成曜は独特の作家性を持ってるから、自分のスタイルでしか絵描けないけど、濱洲英樹とか向田隆とかどんな絵柄にも合わせられてなおかつ動きの幅が全方位に自由だからいいよね。吉成曜絶対主義だったあのころの呪縛から解放された気分。ももや人狼で沖浦作画にえらい苦労したって言ってたしな吉成は。

金田系に忠実になるよりは、自分の中の動きのイメージに忠実なほうがいいんだ。金田系の人はさ、ほら、そのスタイル自体が自分のイメージなわけだからさ。俺は自分でかっこいいもの以外も書きたいと思うし、かっこいいもの以外を書くときに、別のイメージを模索する必要があるわけよ。

 

小林さん家のメイドラゴン、女版おまえらが主人公だったね。なんだろね、京アニの男女比率の問題かな?

エフェクト気持ち悪いと思ったが、ファントムはそんなことないしなあ。

でも動画の巧さには恐れ入ります。

まんざいせんかもツルネも作らなくていいよ、そんなバンバン作品なくていーと思うんだけどなー。

長いスパンで、記憶に残るいいアニメを作ってくれ〜

 

このストレスはなんだろう?動画マン始めた頃によく味わっていたストレスだが、しかしなんかそんなに別に感じる必要の無いことにも思えて仕方が無い。

別にこの経験が無駄ってわけじゃないんだけど、なんかもっとうまいやり方がありそうな気がして仕方が無い。

土曜日一日中使って寝て絵を描いて、なんかペースが戻った気がする。少しだけど。日曜も休みなのが救いだな。

まあ別に、他人に合わせることが絵描きにとってストレスになるから、ゲーム会社とか普通の作業をする会社みたいについたて取っ払ってオープンにしようぜっていうのも賛成といえば賛成だが!大前提としてのそこを無視してやってきている昨今、そこの噛み合わなさが実際に現場にストレスという形で露呈してきているのではなかろうか!!

と、そう考えてるのはきっと僕だけじゃなく、その証拠にみんなどんどん辞めて行くしなー

○○さんと○○くんにはじまり、終わってから○○さんも○○さんも抜け、大黒柱の○○さんも移籍の話が聞こえる始末。

どうよ。やっぱり日本のアニメスタジオでは向いてないんじゃ無いの、このやり方。

正確に言うと、目的地が見えていなければ。その先に何があるのか明確に考えとしてなければ、みんな混乱するんじゃないのか。

 

とは言いつつ俺は行き先がないから続けてるわけなんだけどさ…

行き先ないし、少しはそのやり方、共感するから続けてるわけなんだけどさ。

少しは(6割くらい?)

 

今は原画の仕事をするためのモラトリアムなわけだから、粛々と自分の牙を磨いとくしかないよね。

次からは最初っから絵のうまいヤツ入れれば?その方がいいと思うんだ。なんだあの叩き上げ的世界観。下手なやつだから取る!、みたいな

(…と、もう嫉妬せんでも大丈夫な立場になってから言ってみる。)

 

 

はーリーリエ描きたい。アニポケSM良い。ED作画で岩根雅明氏の名前覚えた。リゼロのopでサビにタイトルロゴ持ってくるの良い。このすば2の作画叩きふざけんな菊田神とも思ったけど、1期の絵見たら分からんでもない。

 

良いアニメが描きたいなー

あの頃考えてたイメージと比べると、なんかすれちまってんのかもしれないな。

隣の人とニコニコ笑ってアニメ作りたいなあ、

だから一人の人間がすべてをコントロールしようとしても無理なんだって。

任せてくれよ、絶対やるからさ。

後輩いつまで新人って言わせとく気よ。

(つーかそれが「仕事」だから「達成させなきゃ」って観念が悪い方に働いてる気がする。制作さんに対するアレとかも)

穴を作ったら、きっとその中でできるやつが自発的に穴埋めるよ。そのときに自由とか喜びを感じるんだろうよ。

作れ‼︎

 

作ってください…

 

 

 

 

 

どーせ貧困や欠乏からストレスが生まれんだろーよ。そしてたまたま誰か一人が潤えば嫉妬で足を引っ張り合う。

 

だから上手いやつ入れてくれって話DEATH。

(つか、評価したって名目で○○さん囲い込んでんじゃねーよ!ばればれだっつーの!!)

 

 

「コミュ力」なんてワザワザカタカナなんかで再定義しなくっても状況がそれを作ってくれるの!

状況とか、緩やかで濃密な関係さえあれば、コミュ力なんでフザけた言葉はみんなの中から出てくるの!

みんなの中に眠ってるの!コミュ力とかいう呪いは!

 

 

みんなどうしてこんな仕事続けてんだ?

 

深夜のバーミヤンで、BOOKOFFで買った新潮文庫のグリーン・マイル1巻を読みながら(読んでないけど

 

 

迎春、ますますご健勝のことと思われますが、こちらは相も変わらずとても憂鬱な毎日で御座いまして

ようやく様々なことがうまく進むようになってきたような気がする。

 

しかし、前にも書いたが、最近になって自分の欲望の深さに驚かされる。

それまでコントロールできていたと思い込んでいたのは、自分を出すことを抑制していたからで、コミュニケイシヨンのために自分を少しずつ出せるようになってからと言うもの、喪失のコントロォルはうまくなったと思うが、それまで見せていけないと思っていた欲望の深さも一緒になって少しずつ露呈していく。

自室に一人でいるときに切り替えていたスイッチがバカになり、少しつづ緩んできているようで一人で慄く。しかしそういう自分は誰にも見せない。とても個人的な問題だからだ。

やはり自分というのは不可思議なもので理解しがたい。自分がそうなんだから他人からすれば一層そうだろう。そんなんだからうまくいかなかったんだよ今まで。

そして今日もまた創作物から鏡のように現実を映し出して読み取ろうとする日々。

 

サンデーで新連載が始まった。舞妓さんちのまかないさん。生活を大事にしていてとても気持ちがいい。こういうの描くのやっぱ女性はうまいよなあ。今でもあるのか?舞妓って。

きっと生で見たらまた勝手に一人で狂喜するんだろうなあ。そしてそういう自分を引いた目で外側から見て、正負の感情の綱引きになってストレスが溜まるんだろうなあ。

まで考えた。しかし、それは漫画の面白さとは関係がない。

女性の描く漫画で人間関係がぱっと見わかりづらいのは俺だけ?その人とこの人の関係性とかもっとスルッと入ってくるもんなんだろうか。昔はもっとひどかったけれど。最近は少しマシになったけど。

「いとこ」と「はとこ」が直感的にわかるようになっただけで大進歩だ。

 

最近の双亡亭壊すべし、のソラリストップをねらえ感。最近ソラリスの文庫版を読み終えて確信を強めた。+ドリルでガイナ系?

からくりサーカス以降の物語の大胆な飛躍は藤田和日郎漫画にとってマイナスになってんじゃないだろか?と思いつつ.....

ハードに物語を紡いでた藤田和日郎漫画がまた読みたい。ゴースト&レディみたいに。

いや、でもこれって少年向けなんだけどさ、と悶々としながら読んでいる。

 

RYOKOはマジで頑張ってくれ。お前はそのまま走り続けてくれ。

 

 

傷物語冷血編も見た。これで幸せになれると思ってしたことが実は全くの見当違いで反対側の結果になり、阿良々木は最後まで何も決断できない人間のまま終わる。成長神話のアンチテーゼとして強烈に魅力的な話でとても満足した。君の名聲片隅に加えての3部構成できっと売れないだろうけど、売れない感じってのもなんか良い。こういう話は決してメジャーになってはいけないからだ。隅の方で隠れてこそっと見るのでちょうどいい。超名作だった。

 

 

そんな感じの毎日。2017年はもっと自分のことを気にかけよう。

社交界の訓練は切り上げる。もう終わった。次に進む。

 

 

 

ハードボイルドな小説を読んで、ハードボイルドな映画を観ようと考える昨今です。 

カフカ的世界観

最近日記を書くことをサボって居た。

別にサボったというわけじゃないが、1日であまり人は成長しない。

新しい経験はたくさんあるけれど、そこで初めて自分の中に生まれる今までになかった考え方や価値観の萌芽は、ひと月ほどの冷却期間を経て昔の価値観とゆっくり混ざり合い、新しい自分の考えを形作るわけです。

 

最近になってよく思うのは、人の欲望は果てしないということ。

そして余暇を過ごすのに人は、この資本主義的世界観に身を置く以上は多かれ少なかれ自分の欲望を満たす行為に費やすこと。

そして、仕事という不可思議な存在について。そこから派生して、アイドルって何だ?ということ。

一見してとりとめないテーマ群のように思うが、なんだか抽象的なイメージとしてこれらはつながっているような気がする。

 

知人にアイドルの映画を勧められた。別に「嫌い」ってわけじゃない。ただ何だかアイドルは「嫌だ」って感じ。アイドルの人気投票システムというのが、快不快をモラルの判断として使っている感じがして嫌なんだ。何だか感受性が退化して、動物に戻ったよう。

「何もない普通の女の子」を、「擬似的にあつらえた資本主義的システム」の中に放り込むと、アラ不思議、需要と供給が成立して、そこに「仕事」が生まれるわけです。

巨大な実験場なんではないか?とも。コミュニケーションがとくいな女性を、超高度なコミュニケーション力が求められる「アイドル」という場所に囲い込み、そこで戦わせる。生き残ったものがこれからの社会を牽引していくのに最も必要な力を持っているわけです。その篩として機能しているのではないかしら。

 

何だかとても斜に構えた考え方だね。しかしそう考えないとやってられない。

少なくとも推しメンを応援して育ててあげよう!なんて気分にはならんのだから。

 

そしてこれも仕事として成立するならば、仕事って一体なんだろう?少なくとも僕が今まで考えて居たようなものではないらしい。

 

そして、仕事をするためには個人の欲望を押さえつけ、コントロールしなければならないそうしないとうまく現場が回らない。

 

それはコミュニケーションに必須のスキルでもあって、要するに何だか他の人の...

 

 

 

 

 

ちょっと待ってくれよ?何かおかしくないか?

入社した頃は、「動画は枚数描いてナンボ、休日や休み返上してでも結果をあげろ」「動画は叩かれてナンボ」とか言われとったわけなのに、なんだ?今の「休みはきっちり取ろう、何かあったらら全力で逃げろ」みたいなカンジ?

どっちに振り切ればいいのかわからない。現状、2つの流れの中でうまくバランスをとっている状態な訳だけれど、そんなものがいつまでも続くはずかない。

 

つーかそんなこと言い出したら俺が今まで信じていた師弟関係なんてディスコミュニケーションの塊になるぞ。師匠が弟子に対して「こう動かないとおかしい、この場合はこう動くはずだ」と教える(期待する)こと、そして弟子が意に沿わぬ行動をとったら苛立ち怒ることも、「自分とは違う考え方の人間もいる」というコミュニケーションの原則に反することになるじゃないか。弟子にしてみりゃ「なんでそんなことで怒ってんの?」ってな具合で。師匠の特権的地位はコミュニケーションという西洋からやって来た大義名分で対等になり、どう付き合っていいかわからなくなる。

 

まあおれの生粋の人見知りもこの世界的な潮流でうやむやになって、俺の方が大衆よりもだいぶ前からこの問題に対して考えていたことになって、結局いいんだけどね。

 

実際。

 

はよ○。○。終われ〜〜〜〜

 

 

 

誰かに怒ったことある?

やはり苦難が伴うなあ、なぞ考えまた1日を過ごしてる。

「何者」を見て、「白け」て周りの環境に対しツッコミを入れ続けることがどれほど非生産的で孤独を深めていくのかというのを嫌という程思い知った。

状況を俯瞰で見て、その上で「どの道を選ぶか」ということが重要だったりするのだ。

選択して、行動するることこそが意外にも一番重要だったりする。

生きづらいなあ、孤立を深めやすいなあ...なぞ考えて過ごしている毎日。

 

怒るってどうすればいいんだろう?とふと気がつく。

誰かに何かを否定された時、生命力を奪われていくような悲しい気分になった時、また僕はへらへら笑って周囲の釣り合いをとることを1番に考えるのだろうか?と考えて心底怯えた。きっとそうなってしまうだろう、という腑に落ちる感覚がどっかしらあるからだ。

そう感じるときは、だいたいそうなる。

きっと本来、そういう時に「怒って」自分を貫くべきなんだろう、ポリシーを曲げないべきなんだろう、自主的な判断力を失わせないべきなんだろう。しかし心がそう簡単に動いてくれたらそんなに苦労はしない。理性で行動したところできっと心は悲鳴を上げ続けしまいに疲弊して動かなくなってしまうだろう。怒るという心の働きがわからない。怒ったことないからわからない。ただもっと原始的な、思い通りに行かずにイライラって感覚だったらはなんども経験している。なんだか感情が幼稚なまま育っていないようで不安になる。怒りというのは本来それとはまた違う。インサイド・ヘッドで習ったろ?

 

数日間、頭から「怒り」に対する興味が離れない。なんだかここに重要なことが眠っている予感がする。

「人から嫌われる」「嫌われない」という行動原理から抜け出せるって予感がするからだ。

「怒り」が存在する世界を想像してみると、自分が他人からの「怒りの感情」を受け止められるという前提に立てば、自分も相手へ怒りを提示できる。そうすればもっとミクロなレベルの、有り体に言えば日常的に怒るメンド臭いうじうじした後悔の念「あの時ああ言えばよかったか...」「彼に苛立ちを感じさせてしまったのではないだろうか...」などの問題に悩まされずに済む。「怒り」の莫大なネガティブ(否定)・エネルギーの前ではそんな些細な承認の欠如なぞ問題にならないからだ。誰かを苛立たせたって、その些細なイライラは余裕で日常的なもので簡単に回復可能なのだという予感をもたせてくれる。

理屈ではなく、感覚の問題なのだ。「腑に落ちる」という感覚さえもたらしてくれれば「不安」は解消され、問題というものはそれで大抵は解決する。しかしその感覚を探すまでのルートは理性や理屈によって辿られる。

 

人間って面倒くさいなあ、人間やめたいな。

金とか勝利とか成功とか一切関係ない世界に行きたいな...

そういうものにご執心の奴らを小馬鹿にする感覚も治んねーかな...

でもさぁまじめんど臭いじゃん?そういう奴ら、死ねばいいって思うじゃんよ?実際よ。

自分の承認欲を満たすことを行動原理の第一に添えて、他人と持ち物や買ったものを比較しあってよ、スマホのカードゲームに課金してる奴らとかさ、たかがアイドルにマジになってる奴らとか、

てかアイドルってすげぇよな。男性の女性への需要と、女性の承認欲求の肥大化が完璧にマッチングしてるもんなーアイドルってシステムすげー。資本主義の完成系だね。

ああ、死ねばいいのになあ。

 

 

そして、ここまでが「何者」で拓人がSNSで書きなぐっていた「ツッコミ」にあたるから、

これをなんとか自分の中に押しとどめ、思想の一部にして、現実世界を実際に生きて、行動するっきゃないんだろう。

実際にさ。

 

っつーか何者が内容もない薄っぺらい話だって!?おじさんからしてみればお行儀が良すぎるだって!!?うっせーよばーーーーか!!!余計なお世話だ死ね!!よくあれを見て何も感じずにいられんだな、愚鈍な図太い神経してんな!!そんな奴らが社会の中では私はマトモな一般人ですよ〜ってな顔して飄々とのさばってんだからこの社会やっぱ狂ってんよ〜〜〜そーいう奴らがちょっと変わったやつに向かって半笑いでツッコミを入れてんだろどーせ!「私が正してあげるよ?」とか「直さないと変な目で見られるよ?ううん私はいいんだけど...困るのは○○くんだよ?」とか?「おかしな」ものに突っ込むことに無自覚で何の葛藤も感じたことねーからからあの話見てもなーんも感じねーんだろ〜よ。どーせ。貧しい感性してんじゃねーぞ。

それとな、おっさんがあの映画見て勝手に理想の若者像を定義してんじゃねーよ。

まあ世界感は狭いよ。若者はそれも自覚的なんだよ。その狭い世界感や校舎という生け簀の中で強固なアイデンティティが育たない一部の若者が「内定」がイコール「自我の承認」レベルまでイっちゃってる狂った現状ってことだろーがよ。それほど他者からの承認が不足している今の狂った現在の状況のことだろーが。その絶望感は多かれ少なかれ同棲代の若者が感じてることで、だから朝井リョウ直木賞とって文壇に認められたんだろが。景気が良かった時代に自分だけ青春過ごしてんじゃあねーぞ?そこで培った価値観だって長い目で見れば相対的なんだっつーの!時代が変わればそりゃあ新しい生き方とか感じ方ってのも生まれてくるだろうよ。早くそれに気づけ馬鹿!

 

 

以上、yahoo映画レビューを見たの感想でした。

 

 

ねむ。おわり。