OH MY GOD!

この絶望感は一体なんだろうとちょっと戸惑う。

一体なんなんだ、なぜ僕はいつもこんなことしか考えられないのだ。

ベッドから起き上がれずに土曜日を無為に過ごす。

他人との間にきちんと個人として立脚した関係を作ることができないという自分に嫌気がさし、同時にそれは生が続いていく限りつねにその絶望感を感じながら生きていかなければならないことを指す。そうしてまた絶望する。

世間様という枷は偉大なのだ。一体いつまで世間様のご機嫌を伺って生きてかなければならない?理屈ではわかっている。他人の言うことに迎合したり、賛同するばかりでは、ある種の人間しか近寄ってこないこと、他人様も自分がどこに怒ったり反発したりするかを見極めることで、自分という人間がわかってくるということに。

一体俺はどこに怒りを感じるのだろうか?

先日「話の飛び方が面白いなぁ」という些細な言葉にまた傷つく。軽く飛ばした冗談を消えろとあしらわれまた傷つく。本人からすれば軽い冗談返しなのだろう。そんなことすらも大真面目に受け取ってしまうこの心は一体...?

また変なことを言っちゃったかなと思い戸惑ってなんかおかしなこと言ったかな...と反芻する。ものの2秒で切り替えて通常の状態に戻った。そう技術や振る舞い方だけは年齢とともに上手くなる。しかしそこで感じた疎外感というのは確かにあり、それはその後の会話に少しだけ影響を与える。

うちに帰ると、歯止めをかけてくれる他人がいないので、僕の生活はどんどん堕落していく。出前のピザを取り、ベッドの上の13インチのMacBook Proで模造クリスタルの同人誌をひたすらダウンロードして読む。一歩も外へ出ないで物が買えるのは便利だが、孤独を満たそうとする欲望をコントロールできないまま購入するのは危険なように思う。そうしてまた寝て、気づいたら1日が過ぎている。ベッドと机の周りにはカードゲームのカードやアニメイトで衝動買いしたDVD、映画のサントラ、借りたまま貸していない本屋DVD、模写をするための雑誌、同人誌などが散乱している。前はいい状態だと思っていた。創作物に身をやつされていく感覚が好きだった。今では単に買い物中毒者が孤独を物で満たそうとしているように思える。

絵を描かなきゃ。起きて絵すら描きたくなくなっていることに気づいて、一体僕の体はどうしちゃったんだと驚く。しかし様々な感覚が薄れてきてその驚きも薄い。pixivにアップして一躍有名人になるんじゃなかったのか?しかしそうして生きている感覚は取り戻せても、この孤独感は満たせないのだろうか?絵を描いている間は、なんだか生産的な人間になった気がして、この駄目になっていく自分も肯定的に捉えられるんじゃなかったのだろうか?

 

世間の感覚を自分の中からシャットアウトする技術が必要だ。自分の体をダメにしていく憂鬱さを堰き止めてくれるのはいつも理性なのだから。

 

もう嫌だ...と投げ出して眠りこけるには眠り過ぎた。しかしだからといって立ち向かおうという気にもなれない。駄目になったっていいのだ。単純に動物的な快楽や生理的な快感だけで生きて行くのなんて最高じゃないか。僕はもっとこれを肯定してやるべきなのだろうか。それを駄目だと思う感覚も世間様からこうしなさい、ああしなさいと言われ続けた枷の名残なのだろうか。

 

そうしてまた眠り、ベッドの中でアレコレ考える。

勝利も敗北も経験したくないのなら、誰よりも強くなることしかないということについてとか、

わかってくれないことをヒステリックにのたまうとき、そこには確かになんらかの特権的快楽を感じていることとか。

生存的なレベルで、共感という感情が人間に必要な理由とか、

現実を突き詰めて抽象化していくと、日常的に使って当たり前になっている「言葉」というものの伝えられる情報の量がいかに少なくて曖昧なのかとか、

 

 

そうして思い至る。おれはいつのまにか、自分の中から他人を排除していたのではないだろうか?

なんだか最初考えていたことと、字面的には似たようなことを言っているようにも思う。

しかしそれこそ言葉の限界で、感覚のレヴェルでは今感じている感覚はまったく違う。

ダレもいない週末後の地表でボロ切れをまとってひとり立っているような世界で生きていたんじゃないんだろうか。

誰かから受け入れられる可能性が確かに感じられる世界をイメージしてみると、急速にに生きる希望は広がってくる。最近になって掴んだコツみたいなものだ。なんだか忘れてしまっていた。ヒステリックに自己表現に忠実になってばかりいると、それは他人を排除しているということが透けて見えてしまって受け入れられないのだ。

なんというか...なんというかもっとこう...

うーん...

勝利や敗北の世界観から遠く離れたいという感覚はというのはここにつながっていて、

恐怖を感じる、だから自分を守るために絵を描く。しかしそうして出来上がったものはある種、世界をバカにしている感覚が透けて見えてしまって受け入れられない、そうしてどんどん孤独を募らせる。という悪循環を、感覚的に予期していたんだ。

 

だって、皆本当に興味があるんは現実だけだもの。

そういってまたひとり机に向かってペンを取る。ようやく生産的なものに近づくことができた気がする。

そうやって、弱みや憂鬱さについて逃避せず考え続けることこそが現実なのだと思う。

だって人間なんてほんの些細なことで簡単に死ぬようにできているのだから...

何にも無いよ。

今日も楽しい1日でした。

 

交感神経が活発に活動していて、なかなか頭が絵を描く頭にならない。

絵を描く気にもなれない。

描きたいのだが、描いた絵を見てああ俺ってやっぱ才能ねーなとか、そっちにばかり気がいってしまってノレない。

でもこの状態で良かったんじゃないの?とか、この状態を手に入れるためにこの半年間さんざ苦労させられてきたんじゃないのかとかも思う。

そういえば、小説も読まなくなってしまったね。没頭できてたあの頃の頃に戻りたいとも思う。

 

何が正しくて何が間違ってるのか。

ニコニコ笑って他人とうまく話せて、まーいろいろとああすれば良かったなってのはあるけれども、それでもなんとかやっていけてて、輪になって氷プールに浸かってた金麦

なんぞを煽りながらワイワイアニメの話とか、絵コンテが上がらないだの、昔やらかして監督が怒ってるからあのタイトルやりたくないだの、そーいう話を聞きながらあれ俺なんでこんなところにいるんだろうと思う。この輪の中に参加していることが信じられなくなる。男だらけの輪の外で一人だけ女子の後輩があきらかに手持ち無沙汰にしているのを目の端で捉えてああ何か話しかけてやんなくちゃなと思う。それでも忙しすぎて映画館に行けてない先輩の未見の君の名はdisが面白かったり、ちゃっかり原画の描き方を教わってたりする。これが幸福ってことなんだ。普通ってことでもあるけど。

今週のリアルアカウントを読んで、ああなんかリア充と非リア充の対立ってやっぱりあってそれは結構深刻なんだって思ったんだ。感受性スペクトラム?感受性の高いやつは必ず思春期の時点で他人の影響で自我がひどく傷つく。その経験が、日常的な人間関係を送る上での恒常的な不満の原因になる。「お前ら好き勝手話してゲラゲラ笑ってるけど、俺は別に何にも面白くねーんだよ」なぜならまた傷つけられる「かもしれない」可能性があるからな。でも日常的なレベルでの共感は必要なので一緒に笑う。そうしてなんだか疎外されてるような不思議な気持ちになる。

これが「白ける」ということで、まあ「スノッブ」とも言い換えれて、まあなんだかガチになれない。心の底から笑うことができないんだよな、お前ら友達のもたらすコンテンツではな。

で、その「白けた自分」をも受け入れてくれる女性に「救われる」ことを期待してんじゃないかな?ユウマが。そして俺も。女性に対してその種の共感を求めてる。

仲間と一緒にいる自分、を外から見ているもう一人の自分に気づくやつは非リア充になる。気づかないやつはリア充になる。そして両者は交わらない。リア充は自分の感受性で世界が成り立っていると信じて疑わないからそれにノレないやつを輪の中から排斥したがる(っつーか見ないふりして締め出して最初からなかったことにするっつーか)ので、非リア充はガチになれないという理由だけで格差を提示されておわり。ワンピースなんかもそーだよね...仲間は最高!って信じれないやつも、麦わら海賊団に入れろよな....そういう奴らだって生は続いてなんとかやってくしかないんだからさ...

(あ、なんだか最近気づいたよ。文学ってこの溢れた奴らを救うためにあるんだよね。コンビニ人間とかもさ、なんで文学って負け組のことばっかかくんだろってずっと疑問だったんだけど、選評の時に村上龍が言ってたじゃん、溢れた奴らを可視化するとかなんとか...)

これがなんだか、松本人志の笑いのようでもあって、なんだかシニカルさとかスノッブとか、皮肉とかって理不尽な中で生き残るための「武器」であるってズートピアで監督が言ってたように思うんだけど。まあガチで生きるのが一番精神的にいいよなって話でありまして、俺が好きな漫画のキャラクターはその二面性が現れてるキャラクターなんだなってことに気づいて、リア垢のユウマ、ベクターボールのあいつ、ユーフォニアムの久美子、たまこまーけっとの常盤みどりとか、

なぜだか開き直ることでそれは強さにも変わる気がする。往々にしてそれは自分の中での受け止め方の問題だからだ。「そこに気づいていて、共感できませんが、なにか?」

と、続けて行けばそれが平気な自分を他者が認識して、自分への接し方が楽な方へ少しだけ変わる。

 

ああ何だか、こんな事が言いたいんじゃあ無いんだけどな...

なんかうまく説明できないんだよ。今まで俺が目指していた問題の解決を達成して、急にそれが取るに足らないものだったとわかったから、何だか茫漠としてるんだよ、目の前が。

それがモチベーションを絵に向かわせることを阻んでいる気がしていて、鬱陶しい。

結局絵さえ描ければ解決するんだよ。この問題は。

 

あーなんか無駄なことしてる気がしてきた。頭の中も整理されたしね、ちょっと絵なんて描いてみるか...

 

 

 あ、あとアイアムアヒーロー伊藤潤二のトリビュート読んで、自分の日常を描くようなエッセイ漫画は書くまいと思った。なんだろうあの違和感。伊藤潤二はホラー「屋」なんだよな...藤子F不二雄がSF屋なのと同じように...逆に今までハードにそのジャンルをなぞっていたんだなとなんだか凄さを実感した。「頭を空っぽにして楽しんでもらう」作画技術見本市とかさー、やめろよな。サンデーの新連載も話ひろがんのか?

題材があまりに日常的すぎやしない?絵はいいのに、絵はとてもいいのに...

やめろよな、そろそろ。

 

 

 

読書とレディオヘッド

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先週の日曜日、地元のファーストキッチンピース又吉の火花を読んだ。

芥川賞だなんだと言われて身構えていたが、王道の青春小説で、いい意味で裏切られました。

(又吉さんが芥川賞をとった月の文藝春秋を買っていて、読む機会を完全に逸していたのだ。つい先日「コンビニ人間」が同賞をとったので僕はまた文藝春秋を買いに走り、たまたま時間が取れたので読むことができた。そのつながりで、積ん読状態だった火花も読むかと思い至ったのだ。)

インタビューで又吉さんが中村文則さんが好きだと言及していて中村文則さんの受賞作土の中の子供も借りてくる(なんだかタイトルが暗闇のなかで子供みたいだなあと思う)

中村文則はAという短編集を読んだことがあるだけだがとても良かったので好きな作家だ。(短編を一冊読んだだけでは好きな作家とは言えない。なのでこれを機に他の長編も読んでみようか)

 

木曜日の代休に、西武新宿駅前のルノアールで「僕には世界がこう見えていた」を読んだ。これが本当に怖い。天才と狂気の境目は、罪悪感、や、疎外感という「ストッパー」を感じるか感じないかという部分なんだなと思う。周囲の環境の中に自分がいるという実感。この作者は「各人それぞれがそれぞれを中心に世界というものは回っているので、それに気づいたものだけがこの世界を思いのままにできる」と「実感」してしまったのだ。この域に至るのは相当なもんだよ。世間というストッパーはおいそれと外せない。

 

友人とウィクロスをしてから眠り、日曜日はひたすら何もしないように全力を傾けた。

鳥居みゆきのハッピーマンデーをブックオフで買ってきて見たかな。なぜ今鳥居みゆき

なのか?しかし彼女はすごい。本当に凄い。まるでガーリッシュナンバー2話で作画崩壊pvパートを任された松竹徳幸吉成鋼のようだ。周囲からの評価が全く追いついていないという点において。

 

この何もしない時間が重要なのだと思う。

圧倒的な空白から本来の読書や映画観賞などは生じて、それ以外ではただの疲労や抑圧を満たすためだけの消費になる。

この空白を現代社会では圧倒的にとりづらい。LINEとかやめねーかな?なんで分単位で連絡が来るんだよ?何割かの人間は、全てのことに意識を向けるようにはできてないのよ。金や人脈のことに興味がない人間だっているわけだよ。

 

なんだかなあ。

皆が違いを認め合て平和に暮らす「ズートピア」的価値観に世界が染まっていくはずなのなら、真っ先にそこに目を向けろよ

もはやマイノリティという理由だけで容易く皆の理解が得られる時代なのだから。

俺は「ゲーム」を降りるのだ。

皆が「何か一つの価値観」にずっと緊張してるとするだろ?その環境の中ではその能力の高い順に優劣が出来上がるわけだ。そこにいると俺は、その価値観に対してなんの執着も感じないから、圧倒的に負け続けて見たされない不安な状態が続くことになる。

が、そこでまあ生存の手段だと割り切ってその能力を意識してみると、今度は勝って上に上がる。しかしそこにはなんの達成感も満足もないし、敗者を足蹴にした後味の悪さだけが残る。皆はよくやったと褒めてくれるが、僕にはそれすらも空々しく映る。

だから、ゲームを降りて、「ゲームを降りた」という認識のもと負け続けて平気な顔をしているとする。すると俺に勝ったやつに安心という名の報酬が出ない。それは勝利じゃないからね。つまりその勝敗ってのは勝ったものと負けたものの相互作用でできてるわけだ。単に勝利者「だけ」がいるなんて道理はない。

そうしてずるずるとそいつらもこっち側の価値観に引き込んで行ってやろうかと画策をする。

 

無意識に、とりとめなく、抽象的に考える深夜の妄想である。

そもそもが勝負をしていないという前提に立てば安心など簡単に手に入る。

karma policeを聴きながら思ったことだ。

この芸術的なPVも、空白の時間がないと見られない。そのためには安心が必要です。

だからこういうことを考えたのであって。

 

 

 

 

歩道に柿が落ちていた。

もう10月になったのだ。

昼間にタバコを吸いに屋上に出た時に感じた暑さはなんだったのだ?

昨日は頭が痛かったから熱いシャワーを浴びてスッキリしてから死ぬほど寝て、変な夢を見て、翌朝自然と目覚めて最近夜気味で狂っていた体のリズムを戻すべく朝日を浴びようとベランダに出てタバコを吸う。じりじりと日光が肌を刺してくる。あれ、夏だっけ?

体の疲れがどうにも取れない。虚しさは日に日に埋まりつつあるのだが、理性を保てない(ほど疲れたり体調が悪かったりした)時なんかはふいに決壊しそうになって、ああやっぱり俺の本質はここにあって、これを解決しなきゃならないんだなとそのたびに残念に思う。

すっげーもう、責任とか社会人的ペルソナを放り投げて思うままにしたいという欲望は、なんとか理性の仮面をかけてましにはなったけれど、これをさてどうしよう、日々の生活の中でどこに発散の場を組み込んでいくべきなんだろう?

明日休みてえなあ。

新潮の9月号を会社の前の駅の図書館(にしか置いていない)で降りて借りてきて、舞城王太郎の「Would You Please Just Stop Making Sense?」を読む。

イットフォローズは俺も好きだよ、舞城とはやっぱ趣味嗜好が合うね。

それはホラー映画の形式を借りた純文学で、切実なものを抽象的に描いてんだろうね。

そういえば舞城も同じジャンルの人だね。

 

円城塔の「闘字」も載っていた、偶然。行きの電車の中で読んでしまう。

おもしろいなあ。でもこれは空想に耽溺しての逃避行動だというのもわかっている。

やっぱり意識しつづけるのは苦手なんだよ。行動とか、結果とか責任とか、因果関係だとか、よく狂わずに生きていけますね?

チェックやら確認やらもううざい!!好きにさせろ!!

これも○○さんが休んでいることが原因なのだろうか?とも思う。

あの人によって制御されていた自分の内にある破滅的な衝動を、すべて自分でなんとかしないといけないって状況により生み出された苦悩、とは考えられることだ。

(要するに、宮崎駿、をコントロールする鈴木敏夫、が一人の人間の中にいないといけないわけで...zzz)

 

 

 

 

午前休

午前休。頭痛が酷いということにして、12時ごろに家を出る。

午前中はずっと絵を描き、満足してふと目をあげると、部屋が散らかっているのに気がつく。

簡単に片付けをして、洗濯物を取り込んで、ゴミ箱のゴミを捨てた。

世界にうまくピントが合っている。何らかの事象一つ一つに対し、「健全な」反応が自然と心に浮かぶ。

「これは普段は無視しているだろう」というところにまで目が行き、そう感じることで普段はいつもより多くのものを無視しているんだなとちょっと驚く。

 

しかし普段など過半数だ。

「特別な状況」が週に4日を越えれば、それが普段の状態になる。

 

 

 

理性というものが意外と強大で、時々自分が「本当に何をしたいかを抑圧させていること」を理性によって知らされないままいまの状況でとる「べき」行動を取ってしまっていることがある。

 

それと同じように、何かをある言葉で定義付けてしまうと、そのまま定義にひきずられて、自分の本当にしたいことができなくなってしまうこともある。

 

本当にしたいことをするために、有象無象の混沌とした現実を整理しようとして行う「定義付け」のはずが、そのショートカットは自らの意識の裡をあまりよく検分せずに行動してしまうという弊害も生じさせるのだ。

 

そして理性のジャミングを押しのけて「本当にしたいこと」に気づき、それをやろう(やったらこの苦しみから解放される)と思っても、理性は「本当はこんなことするべきじゃない」と耳元で静かに囁き続けてくる。全くと言って良いほど発散行為にならない。むしろ抑圧が募っていくだけだ。

 

こういうことが最近起きています。

 

まあ、自分がするべきではない(けど本当はやりたい)と思っていることを少しずつバレない程度にやっていって、だんだん自分の抑圧を緩めていくしかねーな。