陽登り睡眠

大量の2原をさばいて、大量のTP修正さばいて、今日も明け方バイクにゆられて帰ってくる。寝床に落ち着いて一息ついて、遮光カーテンの隙間から漏れる朝日を心地よく感じる。まあそれなりにやりがいはあって楽しい。

 

次話数のレイアウトも書かなきゃいけない、しかし直近ではTP修正の方が先だ。仕上げ工程だし絵は上手くならないと言われるが、俺はもう崩れたアニメが放映されるのは嫌なのだ。そんなもの今後一切見たくない。

そんな経験による哲学に基づいて、昔取った杵柄よろしくサッサと終わらせて提出する。どんどん上がりのカットが右上の棚に増えていく。

くだらない。こんな物に執着なぞないね。俺はTP修正が上手いんだ。それなりにやればそれなりに格好良く仕上がるのさ、こんな風にloの方も進めば良いのになあ。

 

他人の絵をクリンナップする類の仕事を一週間ほど集中してやって、また頭のどこかが緊張して絵が描きづらくなる。loの描き方忘れた。今までどうやって書いてたっけ?

行きしなコンビニに立ち寄り、そこの喫煙スペースでタバコを薫せてるときに、目の端にマンションが見えた、目の前の道路で信号待ちで並んでる車が見えた。その道路へ出るための、コンビニの敷地、10メートル幾つかある。道路の向こうには生垣と民家。こういうのその場でスケッチして、パース感体感で覚えなあかんのかいなとか考える。

いくら清書が上手くても、イチから書かなきゃ価値はないんだ、フザケンナ。深夜に作監の人が寝てしまったので追加の修正がなくなって、空いた時間で絵の練習。めまい を見る。技術だって身についてみればひけらかすことに夢中になるもんだと宮本茂さんが松本人志との対談で言っていた。描きたいという素朴な感情を捕まえるのに、こういう状況じゃいつも苦労する。

なんとか終わって、今日も日曜が終わる。ああまたどこかへ散歩したいな、呆と何も考えないで出来る時間を、3時間で良いから作りたいな

 

そんなことを考えながら今から寝るけれど、たぶん7時間くらいで目が醒めるような気がする。終わった後にへとへとになって12時間も寝てしまうあの疲れ方は今日はしていない。なんせ俺もこの生活に慣れてきたのだ。

希望欠乏症

昼過ぎに起きて、15時過ぎに会社へ行った。22時にはそのまま帰ってくる。

今日行ってラストの1カットをあげれば、この1月くらい続いた長い長い3話数跨ぎのマラソンがついに終了するって思ったら、安心感でぐっすり眠ってしまう。要するにもう頑張りたくないんでしょ。

とはいうものの、7時間働いてるんだな。

少なくとも、12時間以上は働かないと疲弊しなくなった体を(つまり、中途半端に気力と体力を残したままの体を)35キロのスピードで原付は家へと運んでくれる。

「あ、限界だ」と悟るところまで描いて、限界がきたらどんな時間でも家へと直帰できるように原付を買ったのだ。まだまだ余裕DEA~THてな感じのまま会社を出るのは何となく後味が悪い。これも何かに洗脳され、若い労働力を搾取されているのか。しばし悩む。

 

 それでも家へと帰ったらちゃんと気疲れしていて、僕は近くのファミリーマートで買ったロールケーキとヨーグルトを貪りながら、youtubeで人間・東野幸治徹底解剖SPなんて動画を見ながら一人でゲハゲハ笑ってしまう。ここのところ、集中して絵を描くことが多かったから何となく、テンションがローのまま回復しなく、誰ともあまり話したいと思えない。そんな時に見る東野幸治の動画は格段に面白くって、中高生には受けないくせに、30際以上の男性ファンが異常に多いとどこかで聞いた噂を思い出してまた笑う。そんな感じで1時間半、また僕はだらけてしまう。何にもしたい気分になれない。まともに頭が働かない。意欲によって脳の方向づけがされて、特定の方向へ行動させようという回路がショートしている。

いい加減に動画も飽きてきて、歯を磨いてシャワーを浴びて、ふと気がつくと意欲が戻ってきている、何かしたい気になれている。やった!回復した!さっきのはダメな方向へと自ら突き進むいつもの憂鬱さではなく、ただの休憩だったんだね。

 

 10クローバーフィールドレーンのことを思い出していた。昼間に岡田斗司夫が話しているのを、これもyoutubeで聞いていたからだ。2,3年くらい前に劇場へ観に行って、話は面白かったのだが、とても落ち込んで帰ってきたのだった。僕にあの映画の登場人物のような、極限の状態でそれでも生きる方向へとコマを進めるだろうか?まだまだ行きたい、行動したい1と、いう指向性を、脳は持ってくれているだろうか?「もう いいよ〜」って床に寝転んで、目と耳を塞いで隅っこでうずくまっている自分が想像できて仕方がない。

おんなじ状況があるって考えた。○○さんのことだ。こんな環境で、なぜあそこまで行動できるのだろうか?2人いれば1人でやるより何倍の助けにもなうとはいうが、状況は確実に良い方向へと転んできている。なんてすごいんだろう。僕にはあのような白熱した意思と指向性があるだろうか?そう考えて嫌になる。

 

 そこまで考えても、結局は着実な日々の生活の積み重ねなのだ。あのカットをやって、明日はあのカットをやって、明後日は別のカットをやって、そのような積み重ねは、半年以上経過した今、確実に良い影響を自分に与えてくれている。指向性というならば、放っておいてもこの方向へと動く力だけは100パーセント止めようがないので、その力の向く先を、ほんの少し○○さんの方向へ寄せて微調整を図れば良いんだろ。

それが人に影響を受けるってことなんだろ。

 

 

 

 

希望欠乏症

なんにも  いいと 思えない

あんまり 憤慨も しない

 

こんな時代じゃ てまひまかけよが かけなろが しまいには一緒くた

きっと違いの わかる人はいます そ信じて丁寧にこさえてましょ

 

椎名林檎の歌がとてもよくていつも聞いてしまう。かすれた悲鳴のような声が生っぽく聞こえて動揺させる。

真実の愛とは?

深夜、家へと車で送ってくれている制作さんが、年上の原画の人と車中で話しているのを後部座席で聞いていたが、全くと言っていいほど興味が持てない。

内容は、誰々がこない、何々がやばい、と言ったような話で、

よくある愚痴みたいにヒステリックに叫ぶような感じじゃなくて、ちゃんと心配をしていて、憂えていて、

うまくいくよう祈っているような話し方だったのだが、いつごろからかそのテの話題に全く心が動かなくなっていることに気づく。聞き飽きたのを通り越して、いい加減にしてほしいとイライラする。

 

こんな風に馬鹿っぽく真面目になんとかしなくちゃと捉えているから、どこにも解決法がないような気がしてハナっから机をひっくり返したくなるのかもしれないが、この業界がもともとそういうものだと言われればまあ、そうかもしれないが、

構造的欠陥なんてなくってきちんとやればうまく回るはずだし、そうでありたいなあと思っているのだが、こうまでいい噂を聞かないといい加減イライラしてくる。深夜の感情の起伏の激しさも相まってか、この会話のどこにも加わる隙間が無いなんて思いながら自宅までの距離を後部座席でぼけっと座っている。

 

そうしていると、いや、僕はそもそも、普段の会話でもこういうことがないだろうかと明後日の方向へと思考が敷衍していく。誰かが何か普通の世間話を話していて、それに対して何の感情も湧いてこないことがよくある。返答に困って、あからさまに興味の無い様を呈してしまう。その場に3人以上も人がいると、どんどん自分に興味の無い話題が膨らんでいき、とうとう僕は孤立してしまう。

そういう孤立感に特に敏感だったと車の中でそれに似た感情を味わう。

さすがに二十何年も生きてきてみれば、同じような状況の試行はなんども経験していて、その際に「正しいであろう」身の振り方もだんだんわかってくる。

 

帰って寝て、起きるともう日は沈んでいる。今までにも何回も明け方に帰って夕方に起きることはよくあったな、たいていそういう日の深夜はとっても気分が憂鬱になるんだ、と思いながらシャワーを浴びていると、案の定先ほどのことを思い出す。

 

起こったことは何のことはない。ただ車で送ってもらって、(優しいことに)何度か話しも振って貰って、帰り際車を出る際も快く挨拶押して別れただけだ。

これは自分と自分の頭の中だけで起こっているIFの世界の妄想なのです。

「真実の愛」を求めすぎてるんじゃないの?って思うんだよね。

過剰な理解や共感、創作物の中にしか存在しないような、全ての条件がピッタリ当てはまって初めて得られる人生そのものが変わるような深い愛

を、普通に横で暮らしている人とかにも当てはめて考えちゃうから、そんな気分になるんだよ。

もっと表層的なテキトーな会話をしようと思った次第。僕にはそれでちょうどバランスが取れると思いました。

 

かといって、さっきのスケジュールの話をしたくないのとかは別。

社内の人間と、外から入った人の間で、何か決定的なズレがあると思うんだよね。

この会社にはほとほと愛想が尽き果てるけど、情みたいなものはまだあって、

その過剰に肩入れしてしまう性格にも、問題はあると思うんだよね。

 

さて、どうしたらスケジュールの話ができるようになるのだろう?

したくないことを、しないといけないと思ってしまう性格が、そもそもまちがっているのだろうか?

なぜ自分は自分の感情がわからずに、べき論で行動していつも疲れ果ててしまうのだろうか?

何だか様々な問題が複雑に絡み合って、今の性格を形成しているように感じる。

俺は本当にスケジュールの話をしたいのだろうか?

いや、たぶんそれも正しい身の振り方ってことで、

 

帰りの車の中の30分の間くらい、テキトーに会話を保たせておく技ってのが、多分正解なんだろうか

今のところの。

 

「真実の愛」というキーワード、何か形にならずに消えてしまいそうな思考に、言葉を与えることで考えが深まりやすいのだった。

◯◯◯

仕事していると妄想の種が浮かんだり消えたりするが形にならない。最近は起きてる時間のフルを仕事に使って、帰るころにはものすご眠く帰って倒れふすようにして寝ることが多い。

 

◯◯さんが行っていた通りの生活パターンになっていて、それを自分でも意識しているし、それが結構満足でもある。若いうちだけだと、こういうことができるのは。

◯◯さんは30になったらしいが、これよりもハードな生活を続けているので、まだ当分は大丈夫かなと思う。健康診断の結果が気になる。

 

原画をしたりLOラフ原をしたりしていると、脳のある部分が刺激されて何か面白そうなアイデアのタネが浮かぶことが多いが、それを家に帰ってじっくり書くことはあまりない。これはまずい。

 

同人を書くことに決めたが、そんな時に限って予定していなかった仕事が舞い込んできたりする。

このていたらく。

深夜2時になってようやくひと段落の目処がつき、終電が終わっているので帰るに帰れない。真剣にバイクを買うことを検討する。

 

 

 

習慣とは恐ろしいなあ

いや本当に。

歯医者へ行くために昼間会社を抜け出し、駅のホームへ向かう階段を上ろうとすると、何も考えずに普段通りの階段を登っていることに気づく。昼間はエスカレーターが登りを向いているのだ。そっちに乗ったほうが良かったのではないかしら。

 

恐ろしいというが、原画に上がってからというもの動画時代の習慣からはとうに抜け出して、また新たな習慣を形成せんといろいろ試してみている。ある種の対応を任されて半年前にIN時間を遅らせてもらったまま、それが済んだ後でも遅らせたIN時間はそのままになっており、寝ぼけた頭で慌てて会社へ行くこともなくなった。あてがわれたルールを悪用しているのだが、それを「悪用」するという前提から疑わねばならないんじゃなかろうか?きちんとした生活を送っていればそのようなルール、ある方が害になる。子供か。

帰ってからの数時間、絵を描くことに集中して、起きて悠々と出社してloを切る。この繰り返しはとても良い影響を私に与えてくれるはずである。ガヤガヤうるさい外野は黙ってろ!私は気にせず、趣味の世界に走ることに決めたのだ。会社組織の枠にあてはめるととたんにアニメーターというのは生産性が落ちる。ベースは同人なのだ、趣味なのだ。枚数とカット数を管理され、エクセルで平均値を割り出される、それが直接給料に反映される。そんな不毛な環境からスーパーウルトラレアなアニメーターが育つわけがないのだ。しかし会社組織という構造上、会社の利益になっているかの査定はしなけりゃならんし、ノルマは必要だ。その矛盾に真相で気づいていながら「組織として」一律のルールを設けて何か打開策をこうじようとしない外野のことなど、どうせ結果が同じなら気にせずにいたほうが精神衛生上よいと思ったのでした。

 

歯医者が終わって、こちはも半年ほど通った歯医者だったのだがとうとう終了と相成りました。なんだか突然に終わって拍子抜けしたし、見知った先生だと突如の別れを宣告されたようでほのかに寂しい、と、思う感情も、他人に重度に肩入れしてしまう自分の恥ずべき点であると。こういう時にこそその場の人当たりの良い会話が好まれるのだ。僕は苦手だし、もっと深くスローなペースの交流を望ましく思い、それこそ恥ずべき物として軽蔑してきたものだったけど、こういう場面で必要になるんだなあと思った次第。

 

機動警察パトレイバーを全巻Amazonで購入して読んでいるのだが、これが気が狂いそうになるくらいに面白い。ゆうきまさみ出渕裕アオイホノオでしか知らない人物のルーツを初めて知る。漫画も上手い。こういうのを上手いっていうんだろうか。内容も適度にハードなのに、ここまでキャラ物として楽しく描けるもんだろうか。

 

また置く場所を考えなければ、本棚新しくしないとね。

 

こういう習慣だけは抜けないし、やめられないよね。

 

 

 

 

効き目の遅い頭痛薬 / 敗北してから現れるヒーロー

a girl like you 森へ往く方法/ 森から出る方法

という同人誌を買うために、立川のメロンブックスまで行った。内容は素晴らしかった。思ってた10倍は良かった。

けむほこという人は天才だと思う。日常という不可逆の流れは、どんなに特別だったことも、刺すような喜びも、痛いほどの悲しみも、すべてきれいに押し流してだんだんと忘れてしまうようにできているのだから、

何よりも特別な今この瞬間を、それが至上なものとして、何度でも思い返せるように焼き付けておかなければならないんだという

その感性はとても共感できるものだし、何よりこの本の中で描かれる二人のやりとりが一つ残らずスクラップして、アルバムに挟んでおきたくなるほど微笑ましい。

 

模造クリスタルのゲーム部では、ある日最悪のことが起こってもその瞬間は死にたくなるほどに気が滅入るけど、日常の流れが全て押し流して元どおりの生活に戻っていく様をある種の救いのように描いていたが、確かにそれは忘れたいことだけではなく

忘れたくないこと、忘れてはいけないことまで

日常の無常の流れに流されて、のっぺりした無感動なものになってしまうのだ。

 

疲れてしまった時は何かしようと躍起にならず

よく寝て、よく考えられるようにしないと。

 

そして毎日の代わり映えしない一瞬一瞬をよく目に焼き付けて、後から思い出せるようにしないとなあ

 

と思った次第。

タイムリープする能力を手に入れて、友達に話そうか一晩考えるくらいの時間の流れのゆるやかさ

ようやく立ち直った。

立ち直ったというほどでもないが、排泄するようにして仕事を片付けて入れば何かやった気になって、気分も晴れる。

昨日から今日にかけて、7月と8月の狭間は不安定だった。久々に明け方までネットをさまよって、様々なゲームの怖い話などを読んで、それはそれで楽しかったのだが、やはり読み応えのあるテキストがあったのでコワイシャシンの嘘かまことかわからない怪現象がイチオシだな。

 

そんなもの、たまにあるどうしようもない気分の抑うつでとってしまった行動を、それも人生においては必要なのだとポジティブに捉えているだけに過ぎなくて、実際のところそういう快楽に忠実なだけの自堕落さは嫌いだし悪い影響しか及ぼさないことも知っている。

昼間、この日中の炎天下にずいぶん遠いところまで散歩して、帰ってめちゃめちゃカット出して、ようやく気分が回転しだす。まだやることはいっぱい残ってるけどね。

 

どうして創作の中の人間はああも端的に感情を言い表せたり、赤面しそうになるセリフを言って相手もそれを受け入れたりできるんだ、と思い、そりゃあ創作の中だからさとか思う。アニメや漫画ばかり見過ぎている俺は現実感の方がそれに上書きされてしまっていて、何故かアニメや漫画の様な会話でなければならないと思い込み、そんな青春でなければならないと思い込む。その思い込みに気づかない場合もある。

倫理とか矜持とか大層な名前をつけた意固地さは実に意地悪に現実生活に破綻を生み出して、それが単なる思い込みだったことを知らせる。

 

あー快楽に流されてしまうほど心が弱るのが嫌いだ。今の状態が本来の自分なのだ。たかが中高大学の10年たらずの経験を頼りに、「そうやって流されてしまうのが本来の僕だよねー」などと心の底で思っている自分も、結局は快楽の一部なのだ。こう思っている自分が本当のゼロ地点の自分なのだ。

 

また頭の痛くなる様な話を聞いて、今日も終電を逃してタクシーで帰る。